アントニオ猪木「偏見と病魔」と闘い続けたプロレス人生62年

 19年から難病「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」を患い闘病中だった「燃える闘魂」アントニオ猪木が、10月1日朝に亡くなった。享年79。最後まで、病気と闘い続け、8月には新会社も設立するなど意欲的な活動を続けた矢先の急逝だった。

 プロレス担当記者が語る。

「猪木さんが最後に公の場に姿を現したのは『24時間テレビ』(日本テレビ系)で、日本武道館でのステージでした。その前年には、猪木さんの闘病に密着したNHK番組『燃える闘魂 ラストスタンド』で病名をカミングアウトし、自身が一時はかなり重篤な症状だったことも告白して衝撃を与えました。当初は表舞台にも顔を出さないことから、昨年3月には『死亡説』も出たことがあった。最終的に本人の番組出演で、往年のプロレスファンを中心に大きな反響があり、体調が許せば積極的に出ようと、10月にもテレビ出演の予定があったそうです」

 猪木は、晩年にかかった難病以外にも持病として心臓病があったほか、現役バリバリの39歳の時には、糖尿病になり血糖値が500を超えることもあった。

「猪木さんは血糖値が上がると、氷を敷き詰めた水風呂に入って血糖値を下げるというプロレスラーならではの治療法をテレビで公開したことがある。猪木さんという強靱な肉体の持ち主ならではですが、公開当時は話題となり、新たな糖尿病の治療法として注目されたこともありました」(前出・プロレス担当記者)

 病気のみならず、60年のデビュー以来、一貫して「プロレスは八百長」という世間の偏見とも戦い続けた。

「その究極が、76年6月26日に行われた猪木対モハメド・アリ戦でした。もちろん同日にデビューしたライバルのジャイアント馬場率いる全日本に対抗する上で異種格闘技戦に挑んだ点は否めませんが、猪木さん自身は『プロレスは八百長という世間の偏見を変えたい』という思惑からアリ戦にこぎつけたということをインタビューでも話しています。最後まで、プロレスがメジャースポーツに追いつけ追い越せという意識があった。98年の引退後も新日本プロレスの選手を総合格闘技に送り込んだのも猪木さんのプロレスの地位向上という目的があった」(前出・プロレス担当記者)

 週刊アサヒ芸能連載「新日本プロレスvs全日本プロレス『仁義なき』50年闘争史」でもお馴染みのプロレスライター・小佐野景浩氏が猪木の功績を称える。

「最後に話をさせていただいたのは、2020年2月8日、猪木さんと天龍さんのトークショーの席でした。舞台裏では車イスに乗られていましたが、ステージには元気に立って上がり、いきなり天龍さんの皺枯れ声をマネして、猪木さんらしいなと思いました。

 実は私自身、高校生時代に新日本プロレスのファンクラブを主宰していまして、マスコミ側に立ってから新日本担当をすることはありませんでしたが、ずっと猪木さんのファンでした。取材をさせていただくようになったのはそれこそ引退されたあとで『もうプロレスの話はいいよ』なんて言いながら、いざプロレスの話になると熱くなって。ずっと僕が抱く、憧れのヒーローのままでした。

 長い闘病生活を過ごされ、昨年に死亡説が流れた時には自らメッセージ動画を公開され、あまりに痩せている姿に驚きましたが、それこそが猪木さんだと。亡くなる最後まで猪木寛至ではなく、アントニオ猪木のままだったと思います」

 病魔との闘いでもカウント2.99で何度も復活した猪木の燃える闘魂は、我々ファンに感動を与えてくれた。ありがとうの言葉を添えて合掌したい。

*週刊アサヒ芸能10月13日号掲載

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