アントニオ猪木一覧

新日本プロレスVS全日本プロレス「仁義なき」50年闘争史【9】「猪木VSストロング小林」の名勝負

 1974年は新日本プロレスとアントニオ猪木が、実力日本一路線を打ち出して大躍進した1年だ。  そのきっかけとなったのは国際プロレスのエース、ストロング小林のフリー宣言。同年2月13日にフリー宣言し...

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新日本プロレスVS全日本プロレス「仁義なき」50年闘争史【8】新日本が大巨人アンドレ争奪戦に勝利

 1973年2月8日、アントニオ猪木と坂口征二による新日本プロレスと日本プロレスの合併が報じられた時、全日本プロレスのジャイアント馬場は「正直言って、驚かなかったね。かなり前から動きには気付いていたか...

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新日本プロレスVS全日本プロレス「仁義なき」50年闘争史【7】“ダイヤの原石”鶴田を巡る争奪戦!

 1972年3月に新日本プロレスを旗揚げしたアントニオ猪木、同年10月に全日本プロレスを旗揚げしたジャイアント馬場。ともにプロレスラーとして、プロモーターとして、日本マット界の頂点に立つという野望を抱...

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新日本プロレスVS全日本プロレス「仁義なき」50年闘争史【6】猪木と坂口が電撃合体

 1972年10月22日、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスが日本テレビと力道山家を後ろ盾に豪華外国人を揃えて東京・日大講堂で本旗揚げ。この年の3月6日にテレビも付かず、豪華外国人も呼べずに意地だけ...

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新日本プロレスVS全日本プロレス「仁義なき」50年闘争史【4】日本テレビの要請で馬場が独立宣言

 1971年暮れに会社乗っ取りを策したとして日本プロレスを追放されたアントニオ猪木は、翌72年3月6日に新日本プロレスを旗揚げ。しかしテレビ中継もなく、大物外国人も呼べずに苦戦した。3月25日の秩父宮...

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アントニオ猪木が墓所を構えたのは、1000年以上の歴史を持つ秘湯だった

 タンパク質が変異した物質が心臓に付着する指定難病「心アミロイドーシス」を発症し、闘病生活を続けるアントニオ猪木(79)。5月22日、久々に東京を離れた“燃える闘魂”が向かった先は青森県十和田市にある...

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新日本プロレスVS全日本プロレス「仁義なき」50年闘争史【3】マット界の孤児になった猪木の旗揚げ

 1971年12月13日、会社乗っ取りのクーデターを画策したとして日本プロレスを追放されたアントニオ猪木は、翌日に記者会見を開いて「会社をよくするために私と馬場さんが中心になって全選手が手を握った。そ...

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新日本プロレスVS全日本プロレス「仁義なき」50年闘争史【2】馬場と猪木の蜜月と決別

 1966年3月、2年間の米国武者修行を終えたアントニオ猪木は、4月開幕の「第8回ワールド・リーグ戦」に参加するべく、帰国前にハワイでジャイアント馬場と合流して特訓を行ったが、一緒に帰国することはなか...

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新日本プロレスVS全日本プロレス「仁義なき」50年闘争史【1】馬場と猪木が兄弟からライバル関係に

 1972年3月66日にアントニオ猪木が東京・大田区体育館(現・大田区総合体育館)で旗揚げした新日本プロレス、同年10月22日にジャイアント馬場が東京・日大講堂で旗揚げした全日本プロレスが今年2022...

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プロレス界「戦慄の事件簿」裏取材メモ【1】アントニオ猪木のベロ出し失神、翌日に極秘退院

 週刊アサヒ芸能連載『日本を揺るがしたプロレス界「戦慄の事件簿」裏取材メモ』がいよいよ最終回。長年にわたってプロレスを目撃してきたベテラン記者、小佐野景浩氏とカメラマンの山内猛氏が名勝負とその舞台裏に...

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