“百折不撓”の曙太郎が温めていた「相撲道場」構想

 大相撲の外国人力士として初の横綱になった曙太郎が亡くなっていたことが4月11日に明らかになった。54歳だった。
 
 ハワイ・オアフ島出身でバスケットボールではハワイ高校選抜メンバーになるほどの実力があったが、指導していたコーチと反りが合わずにハワイ力士のパイオニア、高見山(元東関親方)を頼り、昭和63年に相撲界に入門した。同期には若貴兄弟、浅香山親方(元大関魁皇)らがいる。「花の六三組」として若貴フィーバーに沸いた空前の相撲ブームを引っ張った1人だった。
 
 生前「若貴兄弟がいなかったら、俺は横綱になっていなかった」とよく話していたが、引退後に東関部屋付きの曙親方として、高見盛(現東関親方)や故・潮丸ら関取衆を育成した。古参の相撲記者によると「ハワイ勢の力士の中でも弟子の教育はとても評価が高かった」という。
 
 ところが2003年11月に相撲協会を電撃退職した。

「突然の退職には様々な憶測が流れましたが、一番の理由は相撲部屋を持つために必要な親方株を取得することができなかったからです。数億円の価格で取引されており、お金を工面することができなかった。それと、当時の執行部(北の湖理事長)にハワイで本場所開催することなどを提案していたが、ことごとく却下されて協会に対しても嫌気がさしていました」(夕刊紙記者)

 相撲協会退職後にはプロレスラーになったが、これも米国で「いつか相撲道場を開きたい」という構想を持っていたからだった。ライバルだった貴乃花光司氏とは共に協会を辞めてから「本音で話せるようになった」という。もし2人が相撲協会の執行部に残っていたら、間違いなく違った形の「相撲協会」になっていたはずだ。

(小田龍司)

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