「15の夜」「十七歳の地図」「卒業」「シェリー」「I LOVE YOU」‥‥亡くなってから30年目を迎えても、尾崎豊の歌は風化することなく、脈々と生き続ける。当時を知る世代だけでなく、今なお若いファンを増やす尾崎の生命力とは何か。その答えを、関わった者たちの貴重な証言で紐解いてゆく。
92年4月25日に、26歳の若さで夭折した孤高のシンガー・尾崎豊。その伝説は数多くあるが、音楽関係者にいち早く名を轟かせたのは、84年8月4日、日比谷野音での「飛び降り事件」だろう。
この日、尾崎は浜田省吾らと、反核をテーマにしたイベント「アトミックカフェ」に出演。4曲を披露する予定だったが、2曲目にして異変が起きた。バンドのリードギターだった江口正祥(まさよし)が振り返る。
「この日を含むツアーで、尾崎が照明台に登っては落ちそうになる演出は、何度かやっていたんです。僕のギターソロの部分で少し登っては、落っこちそうなフリをする。僕がギターを弾きながら『そろそろ戻ろうか』と目で合図をして、曲の歌い出しに間に合うように尾崎が戻って来る」
ところが、この日に限っては違った。尾崎がいつものように照明台に登っていく瞬間、ふと目が合うと、ニヤリと笑った。酒に酔っているような「目の焦点」だったという。
そして尾崎は、高さ7メートルの照明台からジャンプする。その瞬間、不気味な音が響き、尾崎は苦悶の表情を浮かべた。
「日比谷野音は床がコンクリートなんですよ。あれだけの大ケガだけど、それでもまだ不幸中の幸いです。頭から落ちていたら死んでいたと思います」
江口は茫然としながらギターを弾き続けた。尾崎はスタッフに抱えられ、ステージ裏に引き上げる。それでも再び戻ってくると、這いつくばったまま残りの曲を歌い終えた。
江口はデビューライブから3年以上を、バンドの要として支えた。最初は「8ビート」という言葉も知らなかった尾崎が、またたく間に音楽的成長を見せた。
そしてデビューから1年も経っていない日比谷野音で、尾崎は左脚の骨折で4カ月ものブランクを負ってしまう。実はケガをした翌日も同じ日比谷野音で、親友となる吉川晃司とのジョイントライブが予定されていた。
「あいつとやりたかったのに。尾崎のバカヤロー!」
当日に出演不能を知った吉川は、ステージでそんな思いをぶちまけている。この日から3年後、吉川は尾崎をある人物に紹介する。
「実は尾崎が甲斐さんとしゃべりたいらしいんだけど、それが言えなくて」
吉川と旧知の甲斐よしひろのことである。偶然、甲斐が飲んでいた西麻布の店に2人が訪れ、その一言を残すと吉川は帰り、それに促されるように隣に座った尾崎が口を開いた。
「尾崎です。ずっと聴いていました」
尾崎と干支で一回り上になる甲斐は、日本のロック史に多大な功績を残す「甲斐バンド」のフロントマンで、特に詞の部分で尾崎に大きな影響を与えた。
「あの『100万$ナイト』の詞は、どんな気持ちで書かれたんでしょうか」
甲斐は面食らった。もし、自分がミック・ジャガーに会ったとしても「あの詞はどう書いたんだい?」などというストレートな問いかけは絶対にしない。これはあまりにも陳腐な「初対面の聞き方」だと、笑うしかなかった。
尾崎が心酔した「100万$ナイト」とは、79年に発表した重厚なバラードで、ミラーボールの光とともにアンコールのラストに披露されることが多い。
甲斐は尾崎に、ひとつだけアドバイスした。
「自分の身の回りから、はみ出すようなストーリーを描くべきだ」
今、自分たちが生きている世界観から、大きく枠の外に出たものを描くのだと伝えている。尾崎の没後、甲斐はアルバムに「I(#2)」という、尾崎をイメージした楽曲を書いている。
(石田伸也)