井上陽水「音楽巨人の50年秘録」(2)「傘がない」に如実な変化

 日本のアーティスト本で空前絶後の売り上げを誇るのは、矢沢永吉の「成りあがり」(78年)である。矢沢は同著で、研究のために買った唯一のアルバムが陽水の「氷の世界」(73年)である、と書いた。

 ただ矢沢は、何度レコードに針を落としても、なぜ100万枚も売れたのか解明できなかった。唯一、手がかりに思えたのは「演歌の匂い」があることだ、と記している。

 ビートルズで開眼した陽水は、演歌の薫陶を受けていない。ただ、プロのアーティストとして挫折を経験することで〝演歌的な下積み〟は味わった。

 後に「甲斐バンド」を率いる甲斐よしひろは、博多の伝説のライブ喫茶で知られる「照和」で働いていた頃、一時的に都落ちした陽水と遭遇する。店主が「コーラ1杯しか出せませんが」と申し出ると、了承した陽水はギターの弦を張り替えてステージに立つ。コーラ1杯と新しい弦の対比に、プロとして東京で生きていくことの凄味を知ったと甲斐は明かす。

 話は前後するが、69年にデビューした「アンドレ・カンドレ」名義の陽水は、シングルを3枚出しただけで終わった。この不遇時代に縁を持ち、再デビュー後に二人三脚でアルバム制作に関わった川瀬泰雄が、その出会いを述懐する。

「デモテープを聴いて、ビートルズの匂いがしたから『好きなの?』って聞くと『別に』と突っ張った返事をする。だけど、レッスン室の鍵を渡すと、陽水は何時間もビートルズを熱唱していたよ」

 川瀬はこの3月にも「ビートルズ全213曲のカバー・ベスト10」(リットーミュージック)を上梓したほどの研究家である。陽水と意気投合するのに時間はかからず、新たなレコード会社としてポリドールのディレクター・多賀英典に話を持ちかける。

 川瀬は、多賀との出会いが陽水を大きく開花させたと語る。

「僕も陽水もサウンド重視だったけど、多賀さんは根っからの文学青年だったので、詞の深さを要求する。例えば陽水としての初シングル『人生が二度あれば』(72年)は、年老いた父と母のことを歌っていますが、この詞に対して多賀さんは苦言を呈しました」

 まだ生きている父親が後悔しているかのような歌詞は、親に対して失礼だというのである。陽水はその言葉に衝撃を受け、以降の楽曲に「詞の重要性」がもたらされる。前出の富澤は、次のシングル「傘がない」(72年)で、その変化が表れたと言う。

「フォークの神様と呼ばれた岡林信康は〈私たち〉と歌った。吉田拓郎は〈私〉を代弁した。さらに陽水は、より私的な部分を強調し、この『傘がない』でも若者の自殺増加問題に触れながら、それでも大事なのは恋人に会いに行くための傘の有無だと歌っているんです」

 陽水の人気はアルバムを出すごとに高まり、そして「氷の世界」が日本初のミリオンセラーアルバムとなる。レコードプレイヤーがさほど普及していない時代を思えば、枚数以上の価値を持つ、驚異的なセールスであった。

石田伸也(文中敬称略)

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