小山はシンガーソングライターらしく、歌で尾崎にエールを送ったことがあるという。一度目は87年に発表した「Motherless child」。所属事務所が立ち上げたレコード会社「MOTHER&CHILDREN」に移籍せざるをえなかった尾崎の苦悩を、タイトルでも暗喩している。
「歌い出しは『うぬぼれた夜、うなだれた朝、安っぽい真実』なんです」
小山の意図するところは、全編にわたって強烈に展開する。巻き込まれた尾崎へのエールなのか、取り巻いた大人たちへの皮肉なのか─「塗り替えられた地図」「使い古しの自由」「傷ついたヒーロー」など、尾崎の定番フレーズをベースとしていることがわかる。
「これは完全に当時の尾崎君に向けて作った歌ですね。それでいて、自分自身に当てはまる部分もあったと思います」
そして92年に尾崎の訃報を聞くと、小山は「孤独のゲーム」のタイトルで、尾崎への追悼を書き下ろした。
〈君は俺を卒業して ついでに自分からも卒業するんだろう?〉
大ヒットした「卒業」(85年)をモチーフとしている。さらに、デビュー曲「15の夜」(83年)も、小山流にあしらった。
〈いつでももう飛びだせるぜ 15の時から荷造りをしてる〉
小山は尾崎が生きた時代を締めくくる。
「若者たちが世の中に対して反抗するのは、どんな時代にもある。それでも、尾崎が世に出た80年代は、特にその部分がクローズアップされた。それが彼への支持にもつながった」
尾崎と同じ80年代に「アイドル」として君臨したのは、光GENJIの中心メンバーだった大沢樹生だ。
大沢が尾崎と知り合ったのは、光GENJIが結成される前、85年頃である。大沢は4歳上の尾崎を「ユタカ君」と呼び、尾崎は「ミキオ」と呼んでいた。
大沢が、お互いの若き日を懐かしむように口を開く。
「当時、よく行っていた六本木のカラオケパブ『2001年』や『3001年』で知り合ったのかな。僕は前のグループの『イーグルス』が自然消滅して、高校生になったら、とにかく人脈作りをやりたいと思っていたから。ユタカ君はひとりで来ることが多かったので、自然と仲良くなっていった感じ」
大沢と尾崎は、互いの仕事の話はほとんどせず、共通の友人の家に泊まりに行くなど、どこにでもいる若者の付き合いであった。酔っぱらった尾崎が大柄な相撲取りにケンカを吹っかけ、あっという間にぶっ飛ばされる場面を見たこともあった、と笑う。
大沢にとって今も忘れられないのは、自身の17歳のバースデーに尾崎も現れ、そこで「十七歳の地図」を一緒に歌ってくれたこと。
「その時にポラロイドで撮った2人の写真と、ユタカ君から誕生日プレゼントでもらったキーが変えられる高級なハーモニカは、今もずっと宝物ですよ」
訃報を聞いたのは、光GENJIの仕事で出向いていた海外でのこと。まず「あの若さでなぜ?」と思い、続いて「なんて不思議な死に方なんだ」と思った。
会わなくなって長い月日は流れていたが、思い出すのは陽気に遊んでいたお互いの青春時代であった。
(石田伸也)
*「週刊アサヒ芸能」6月10日特大号より