ユカイは「レッド・ウォーリアーズ」でのデビューこそ尾崎に2年半ほど遅れたが、年齢もミュージシャンとしてのキャリアも上である。
「なんだかロック、ロックとはしゃいでいたけど、僕らには『ニューミュージックの延長』にしか思えなかった。彼は海外のロックを勉強する間もなく、早くにデビューしちゃったんだよな。彼はオーディション出身だけど、俺たちはライブハウスからの叩き上げ。そのためか、俺に『ロックを教えてください』と言ってきたこともあったね」
87年8月3日、尾崎は大阪球場での2度目のライブを開催する。たまたま大阪にいたユカイは、一度ライブを見ようかという気になった。
「正直、曲に関しては年齢の差もあるから、それほど期待はしていなかった。ところが、ライブが始まって、何だろうな‥‥びっくりしたんだよ」
それは、尾崎自身の「放熱」に対してだった。
「ステージからものすごくエネルギーが届いてくる。そうか、尾崎ってこれだったんだ! CDではわからなかったけど、このエネルギーだったんだ! ピンポイントで自分がいる席に向かって、ブワーッと噴射されてくるんだよ」
ユカイはここで初めて「尾崎豊そのもの」を認識したという。やがて事務所も別になり、尾崎と会うこともなくなっていたある日、偶然にスポーツジムで再会する。それは92年、尾崎が亡くなる数週間前のことだったと、ユカイは記憶する。
「あれだけ太ったり痩せたりを繰り返していた尾崎が、最後に会った時は痩せているだけでなく『あれ? あの熱かった尾崎がこんなになっちゃったの?』と拍子抜けしたくらい。ものすごく大人びていたんだよ」
事務所を独立し、結婚して長男も生まれた後だけに、大人びて見えるのは不思議ではない。ただ、それだけではない「引っかかり」を感じたのだ。
「たとえて言うなら『あしたのジョー』の力石徹みたいだった。減量の果てに、人生を達観しているような感じ」
力石はもともとウエルター級(66キロ)の大柄な体格でありながら、ジョーと対戦するためにバンタム級(53キロ)まで、苛烈な減量を自らに課す。そしてジョーとの試合後、命を落とす。マンガのキャラでありながら、告別式まで開かれた。尾崎の葬儀会場だった護国寺にほど近い、講談社の会議室でのことである。
異変の理由について、ユカイは続けた。
「俺は当時、事務所とうまくいっていなくて、そんなことを尾崎につぶやいたんだよな。そしたら『ユカイさん、人生はいろんなことがあるから』と言うんだ。あれっ、こんなことを言う男だっけと思った。俺たちが知っている、熱くて、素直で、明るくてハチャメチャな男だった尾崎はそこにはいなかったよ」
今から思えば、尾崎の顔には「死相」が浮かんでいたようにも見えたと、ユカイは言う。
さて、筆者は11年4月、実父の尾崎健一を訪ねている。健一は18年11月28日に91年の人生を終えたが、この当時に生きていたら45歳の尾崎はどうなっていただろうか、と質問した。
「裕哉という子供もいるし、ボロボロな姿ということはさすがになかったんじゃないでしょうか。おそらく、少しは分別のある大人になっていたかなと思う。ただ、それが『尾崎豊』としての面白味を少なくしていたかもしれませんが」
コロナ禍という混迷の時代にも、尾崎の歌は愛され続けている。
(石田伸也)
*「週刊アサヒ芸能」6月17日号より