編曲家・樫原伸彦が尾崎のライブにピアニストとして初めて参加したのは、85年11月1日だった。ただ、樫原がこれまで接したミュージシャンと尾崎は明らかに違っていた。十代の集大成となるツアーでありながら、あまりにも自由であった。
「えっ! 尾崎ってリハーサルに来たり来なかったりするんだ」
それが第一印象である。
「満足なリハーサルもできないままどうなるんだろうと思いましたが、ただ、元からいるメンバーとの呼吸は完成されていました。どう間を取るかとか、プレイヤーの動きを中心としたフォーメーションは、全く心配することはなかったんです」
それより樫原が驚いたのは、ツアー初日の四日市市文化会館から早くも始まった尾崎のテンションの高さである。噂には聞いていたが、高いところから飛び降りようとしたり、客席に飛び降りようとしたり、ハーモニカを放り投げ、ポカリスエットをぶちまけるなど、やりたい放題だった。
「スピーカーから飛び降りた時は『あ、こいつ、またやりやがったな』と思いました。飛び降りてケガしたんじゃなかったの、って聞きたくなるくらいに。僕はそれまで『雅夢』などヤマハ所属のアーティストをサポートすることが多かったのですが、おとなしめな彼らとは全く違うので、とにかく驚きの連続でしたね」
樫原はバンドのメンバーになり、ツアーと並行して、打ち上げにも欠かすことなく顔を出すこととなる。
「イメージと違って、メンバーにもスタッフにも丁寧にお酌をして回る姿に驚きました。自分が座長であるので、素直に『お世話になっています』という感謝の念でしょうね」
酒を飲むのが大好きだった尾崎は、酔ってくると口グセのようにつぶやく言葉があった。
「俺の最初のレコードって、どこに行っても全く売ってなかったんですよ」
有名なエピソードだが、1stアルバム「十七歳の地図」は、初回プレスが2000枚とも1500枚とも言われている。そして樫原は、尾崎のもうひとつの酒グセもたびたび目撃する。
「六本木を歩いていると、酔った尾崎は目つきが悪いから街の不良にからまれるんですよ。しかも、肩で風切って歩くから、チンピラに見えたかもしれない。すぐケンカになって、警察が来るというので一斉に退散していました」
樫原は尾崎の4枚目のアルバム「街路樹」でプロデュースも担当する。ただし、尾崎の薬物による逮捕なども影響し、発売は大幅に遅れた。もっと決定的だったのは、尾崎自身の創作意欲や方向性が迷路に入っていったことだと、樫原は言う。
「できたばかりの曲を聴かせてもらうと、ニューヨークから帰って来た影響なのか、どうにも哲学的な匂いが色濃くなっているんです。作るのは尾崎自身ではあるけれど、時にはあまりにも抽象的な歌詞に『これじゃ何を書いてるんだかわからないよ!』と声を荒げたこともありました」
アルバムが発売された88年9月1日、すでに樫原は尾崎と会うこともなくなっていた・・・・。
尾崎にとって兄貴分と呼べるのが、同じ事務所に所属していたダイアモンドユカイである。ユカイの本名が田所豊で、尾崎は「俺たちは『ダブルゆたちゃん』ですね」と明るく言ったこともある。
ユカイは、尾崎を長嶋茂雄にたとえた。底抜けに明るく、ハチャメチャな部分を持っていたからだという。
「あんなに細いのに、リハーサルの合間に牛丼を3杯、立て続けに食べるんですよ。広島でのイベントの時は、朝までずっと浴びるほど酒を飲んで、明け方の屋台でラーメンを2杯食っていたからね。その体力がすごいなとうらやましくなった」
(石田伸也)