白井は38年前のその日を、冷静に振り返った。
「彼は私のラジオも熱心に聴いていてくれたし、そのことには感謝するけど、今から思えば〈尾崎豊劇場〉がデビュー前から始まっていた形。そのくらい、尋常ではないテンションだった。彼が敬愛する佐野元春さんと私が同じ事務所というのもあって訪ねてきたんでしょうけど、私からしたら、失礼を通り越して『この少年、誰?』『何言ってんだろ、この人』と振り払うしかなかったの」
尾崎は一言も発せず、その場を去った。そして朝方、生放送を終えた白井が局の玄関を出ると、ファンの後ろに尾崎が無言で立っていたという。
この日の贖罪なのか、尾崎は生涯唯一の「前座出演」を翌84年、白井の日比谷野音公演で務めている。
尾崎と白井は同じレコード会社ということもあり、いくつかのイベントで共演した。特に印象深いのは87年8月22日〜23日、熊本・アスペクタの野外ステージで行われた「ビートチャイルド」だ。約7万2000人が詰めかけたイベントは、豪雨にさらされ、救急車が500台も出動する非常事態となった。
「私の出番直前のステージ袖で、事務所の社長に『貴子、絶対にやめるなよ』って念を押されたんですよ。地元の警察からの要請で、途中で中断したら、7万人もの人を宿泊させる施設がない、というのが理由でした」
白井は、避雷針に登って撮影するスタッフの間近に、立て続けに雷が落ちるのを見た。そして白井の出番後、深夜2時に登場した尾崎の時間帯には、71.5ミリという記録的な豪雨になった。
尾崎は予定されていた曲を直前に変更し、全てアップテンポのものにした。客席では、急激な気温低下などで気を失う者が続出したからである。
白井は今も、あのライブに参加した者に会うと両手で握手するという。
「あれで死人が出ていたら、私だけじゃなく、参加したアーティストたちの運命も変わっていたと思います。尾崎君も、ステージ環境は悪かったけど、やり切ったという思いではないでしょうか」
その日から5年後、尾崎の訃報に接した白井は、東京・護国寺の告別式に並んだ4万人の1人となった。
さて尾崎自身が「追っかけ」だったロックシンガーが小山卓治である。小山は尾崎より一足早く83年3月に、同じCBS・ソニーからデビュー。文学性の高い歌詞は、尾崎やミスチルの桜井和寿にも影響を与えている。
小山はこう言った。
「僕の86年1月の日本青年館のライブに、彼は客として来てくれた。言ってくれればもちろん招待するのに、自分でチケットを買い、楽屋に挨拶に来ることもなく、ほかのファンと同じように歌い踊って帰っていったんですよ」
すでに売れっ子の尾崎だったが、1人のファンとしての感覚を忘れずにいたようだ。実は小山と尾崎は、一度だけ共演のチャンスがあった。84年8月5日、吉川晃司も交えて日比谷野音でのイベントが控えていた。ところが、その前日に7メートルの高さの照明台から飛び降りて骨折。
「当日になったら尾崎が出られないということを聞きまして、とにかくびっくりしました。僕もすごく楽しみにしていただけに、これは残念でした」
尾崎の伝説の始まりである。
(石田伸也)