1996年、夏の甲子園、決勝は松山商業高校(愛媛)と熊本工業高校(熊本)との戦いとなった。ともに何度も甲子園出場経験のある強豪校だ。3対3、白熱の試合は延長戦へともつれこむ。
10回裏、熊本工業の攻撃。先頭打者の二塁打、続く送りバンドで一死三塁。熊本工業はサヨナラ勝ちのチャンスを迎える。ここで松山商業監督・澤田は過去に2回、類似した状況でサヨナラ負けを喫した経験から、満塁策を決意する。続く2人を敬遠して一死満塁。まさにのるかそるかの場面。球審がプレーを告げる直前に、澤田監督はライトの守備選手の交代を告げた。ライトに投入されたのは、その夏、出場したのは2試合のみの矢野勝嗣。肩は強いが、送球の際のコントロールに不安があり、さらに当時打撃不振に陥っていた選手だった。
プレー再開。初球が打たれ、打球はライト方向へ。ホームランかと思われる飛球であったが、向かい風で失速。ライトに入っていた矢野は、踵を返して前進してこれを捕球。その勢いのままバックホーム。松山商業の練習で、犠牲フライはカットマンへの中継が基本。ダイレクトの場合ならば、「手堅くワンバウンドで」と指導されていた。しかし、「この距離からではそのどちらでも間に合わない」と判断した矢野は、ホームを狙って力任せに送球。球は内野手の頭上より遥か上空を飛んでいった。暴投とも見えるその球の角度に、熊本工業サイドはサヨナラ勝ちを確信し、松山商業ナインはサヨナラ負けを覚悟した。
しかし次の瞬間、この球は追い風に乗り急速を増し、捕手に向かい飛んでいった。タッチアップで三塁から疾走していた熊本工選手がホームベースに到達するわずか数十センチ手前、ボールをつかんだ捕手のミットが走者のヘルメットをタッチした。球審はアウトを宣言。ダブルプレーにより、まさに寸差で、熊本工のサヨナラ勝ちは阻止された。
試合の流れをつかんだ松山商業11回に3点を上げて勝利し、優勝旗を手にした。サヨナラ負けを防いで、チームを勝利へと導いた矢野の返球は「奇跡のバックホーム」と呼ばれて、甲子園史に刻まれることとなった。
その後の矢野勝嗣の半生はどのようなものであったのだろう。スポーツに詳しい出版関係者に話を聞いた。
「高校卒業後、矢野さんは松山大学へ進学して、大学野球では主将をつとめ、チームを大学野球選手権出場まで導きました。プロ野球や社会人野球へ進もうとは思っていなかったようです。大学卒業後は愛媛朝日テレビに入社しました。営業部、報道制作局を渡り歩き、活躍しています」
そして、高校時代の監督やチームメイトとは、社会人になってからも交流を続けているという。