戦国「10大奇襲」秘聞(終)武田信玄が“ボロ負けした戦”

 本能寺の変で光秀が信長を討ったその11日後に、秀吉が3万の兵を率いて約200キロを高速移動し大奇襲。いわゆる「中国大返し」で、大坂と京都の境目にある山崎で光秀の軍と対決する「山崎の戦い」が起こる。かねてから親交の深かった筒井順慶や細川藤孝らは、なぜか明智軍に加わることなく、秀吉軍について最終的に3万の兵を前にあっけなくわずか1日で敗れてしまった。

「数の差が大きかったこともありますが、『主君の敵討ちという正当性を掲げた勢い』があったことが、秀吉の勝因ですね」(河合氏)

 山崎の戦いのあと天下を取った秀吉の死後、後継を巡って石田三成と徳川家康が戦ったのが「関ヶ原の戦い」。小早川秀秋の裏切りで、優勢だった西軍(三成)が一気に崩れ、家康が勝利したことはあまりに有名だ。河合氏に詳しくひもといてもらおう。

「1万7000という最大の軍勢をもって松尾山に陣取っていた秀秋は、眼下には三成や大谷吉継ら西軍の武将たちがいて東軍と戦っていました。西軍は、鶴が大きく翼を広げたように関ヶ原盆地を見下ろす周囲の山や麓に諸大名が陣を敷く(鶴翼の陣形)戦法を取り、その軍勢は合わせて8万を超えていたと言われています。しかし、ほとんどの武将たちは家康からの手紙などによる離間の計(親しい関係を離反させる計略)によって、日和見、傍観して動かなかったわけです。秀秋もすでに西軍を裏切る約束をしていましたが、西軍の善戦を見て迷います」

 ところが、家康が松尾山に向けて鉄砲を撃ち込んだことで、裏切りを決意して味方の西軍を攻撃。日和見の武将たちも同様に西軍へ矛先を転じて、東軍は西軍の3倍近くに膨らみ、

「わずか1日、正確には6時間程度で東軍・徳川方の勝利で決着します。三成は傍観する武将たちに狼煙を上げて強く参戦を促しますが、まさか自分のところに秀吉の正室・北政所の甥である秀秋が攻めてくるとは思っていなかった。三成から見れば、奇襲と言ってもいいものでした」(河合氏)

 信玄に話を戻すと、対立する敵にひそかにワナを仕掛けられ惨敗する出来事があった。川中島の戦いから約10年前の戦いでのことだ。

「信濃を支配しようとした武田信玄が、村上義清という信濃国の北部の武将にボロボロに負けたという珍しい戦いです。信玄は村上氏の拠点の一つ、戸石(といし)城を攻めますが、崖の上に建てられた堅牢な城でした。ちょうどその頃、義清は武田側についた高梨政頼と戦っていたので、ここがチャンスとばかりに信玄は戸石城を包囲しますが、実はこれがワナ。義清は高梨氏が武田についたと思わせて、信玄を戸石城におびき寄せたのです。そして義清と高梨氏は連合して戸石城を囲む武田軍を奇襲、すると城兵も戸石城から一気に下りてきて、武田軍は総崩れ。信玄は甲冑や武器を捨てて逃げ、これまでにない大敗北を喫します。この敗北のあと、信玄は慎重になり、綿密な戦略を立て、裏工作もするようになるのです」(河合氏)

 これまで見てきたように、戦国時代は奇襲、抜け駆け、寝返り、裏切り、だましだまされ、離間の計は当たり前。戦いの記録や物語は「勝者」の都合のいいように書き換えられ、庶民受けする物語として流布していく。現代のビジネスシーンや政治の世界においても、日産ゴーン事件を持ち出すまでもなく、裏切り、造反は、日々繰り返される。

 長きにわたり、謀反人として汚名を着せられてきた明智光秀だが、令和の世相を反映しながら、「麒麟がくる」ではどのように上書きされるのか、楽しみでもある。

河合敦(かわい・あつし)1965年、東京都生まれ。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。多摩大学客員教授。早稲田大学非常勤講師。歴史作家・歴史研究家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。主な著書:『早わかり日本史』(日本実業出版社)、『大久保利通』(小社)、『日本史は逆から学べ《江戸・戦国編》』(光文社知恵の森文庫)など。

房野史典(ぼうの・ふみのり)1980年、岡山県生まれ。名古屋学院大学卒業。お笑いコンビ「ブロードキャスト!!」のツッコミ担当。無類の戦国武将好きで、歴史好き芸人ユニット「六文ジャー」を結成し、歴史活動も積極的に行う。著書に『超現代語訳戦国時代』『超現代語訳幕末物語』(ともに幻冬舎文庫)、『戦国武将の超絶カッコいい話』(王様文庫)がある。

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