戦国「10大奇襲」秘聞(1)織田信長「桶狭間の戦い」は大ウソ?

 戦国を舞台にしたNHK大河「麒麟がくる」が好調だ。その仁義なき時代を彩った「奇襲」こそは、現代のビジネスシーンにも通じる「必勝戦法」である。本誌「真説!日本史傑物伝」やテレビの歴史解説などでおなじみの歴史家・河合敦氏と、大の戦国ファンであるお笑い芸人・房野史典氏とともに読み解いてみよう。

 織田信長と今川義元が相まみえた「桶狭間(おけはざま)の戦い」は、4万5000とも2万5000とも言われる今川の大軍に対し、わずか2000〜3000の織田軍が、圧倒的な戦力の差を「奇襲」によって勝利した戦いとして知られる。しかし‥‥。

 近年の研究では、少なくとも奇襲ではなかったというのが定説で、信長は義元に正面から攻撃を仕掛けて勝利したという説が有力なのだと、歴史家の河合敦氏は言う。

「江戸時代に、信長の家臣だった太田牛一(おおたぎゅういち)が書いた『信長公記(しんちょうこうき)』という信長の一代記があり、この記録の中に、桶狭間という山に義元は陣取っていたとあります。比較的信頼できる史料なので、そうだとしたら、義元は信長の動きが確実に見えていた。それでは奇襲になりません。また近年、織田軍は今川軍と同等かそれよりも多かったという説が登場しています。柴田勝家など桶狭間にいない重臣がおり、彼らは別な場所で今川軍と戦っていたというのです」

 我々がこれまで教わってきたことは創作‥‥つまり、全部ウソということになる。

「奇襲説が定着したのは、軍学者・小瀬甫庵(おぜほあん)が、『信長公記』をもとに潤色した『信長記(しんちょうき)』という本を刊行して、その後、明治になって日本陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史』に引き継がれ、戦前の教科書などにも載ったことが大きいと言われています」(河合氏)

 戦国好きのお笑い芸人で『超現代語訳 戦国時代』などの著書もある房野史典氏は、

「『信長公記』のとおりだとすると、信長は『勝ち負けは天のみが知ってるんだから、それに頼るっきゃないだろ』みたいな感じで、まったく作戦もなんもないんです。『あっちは鷲津砦と丸根砦を落として疲れてるし、とにかく頑張れよ』って。これって野球で言えば、バッターボックスに立ってベンチを見たら、『サインはホームラン!』って言われてるのと同じですよね。信長って家臣が何を言っても『うるせー!バーンと行けばいいんだ』って、ミスター(長嶋茂雄氏)並み(笑)の指示だけで、毎度毎度、家臣が止めても『いや、行くよ』って家臣の言うことをほとんど聞かないんです。だけどある瞬間には、ワンマンってのは必要なのかなとも思いますね。自分のカンを信じて打って出なかったら、勝ちはなかったわけですから」

 明智光秀が謀反を起こして京都・本能寺に宿泊していた織田信長に奇襲をかけた「本能寺の変」。この時、信長側には多くても100人程度の兵しかいなかった。対する光秀は1万3000人を擁して‥‥。

 しかし河合氏によれば、この奇襲も綿密に計画されたものではなかった。

「信長が京都に少ない兵で滞在していることはわかっていたにしろ、信長の長男・信忠が京都の二条御所にやってくるという情報は直前になって知ったようです。『これなら信長と長男を同時に殺(や)れちゃうぞ』という考えがひらめいて、ギリギリまで迷ったあげく、自身の天下取りの野望や信長に対する不満や恨みなど、いろんな思いもあって発作的に決行したからこそ成功したのだと思います」

河合敦(かわい・あつし)1965年、東京都生まれ。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。多摩大学客員教授。早稲田大学非常勤講師。歴史作家・歴史研究家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。主な著書:『早わかり日本史』(日本実業出版社)、『大久保利通』(小社)、『日本史は逆から学べ《江戸・戦国編》』(光文社知恵の森文庫)など。

房野史典(ぼうの・ふみのり)1980年、岡山県生まれ。名古屋学院大学卒業。お笑いコンビ「ブロードキャスト!!」のツッコミ担当。無類の戦国武将好きで、歴史好き芸人ユニット「六文ジャー」を結成し、歴史活動も積極的に行う。著書に『超現代語訳戦国時代』『超現代語訳幕末物語』(ともに幻冬舎文庫)、『戦国武将の超絶カッコいい話』(王様文庫)がある。

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