川田利明が説く「脱サラでラーメン屋」は絶対やるな(1)ベンツ3台分が消えた

 ジャイアント馬場が率いた全日本プロレスで、四天王の一人として観客を熱狂させた川田利明(56)。数々の名勝負を残した男は、舞台を「リング」から「ラーメン屋」に変え、激闘の日々を送る。

「会社を辞めて退職金でラーメン屋でもやろうか─そう考えている人に言っておきたい。新しい店が1年に3000軒オープンして、4割が1年以内に閉店。8割は3年以内に廃業に追いやられているんです」

 川田はかつて、三沢光晴や小橋建太、スタン・ハンセンらと名勝負を繰り広げ、日本マット界の中軸にいた。そして10年6月、東京・世田谷区に「麺ジャラスK」というラーメン屋をオープンさせる。有名人にありがちな名義貸しではなく、仕込みから調理まで一切を自分の手で行っている。

 ただし、経営が軌道に乗っているわけではない。いや、川田は偽りのない現状を口にする。

「これまで開業資金だけでなく、毎月の家賃や機材のリース料などの支払いで、ベンツ3台分をスープに溶かしたんです。ベンツもいちばん高いのはGクラスのAMGでしたし、それ以外にも生命保険の解約など、資産のほとんどをつぎ込んでいる」

 そんな経験を川田は、脱サラしてラーメン屋を開業したい者への戒めとして著書にした。タイトルは少々長くなるが「開業から3年以内に8割が潰れるラーメン屋を失敗を重ねながら10年も続けてきたプロレスラーが伝える『してはいけない』逆説ビジネス学」(ワニブックス刊)というものだ。

 そもそも、武骨なレスラーだった川田が、なぜ畑違いの職業を選んだのか。

「三沢さんと同じ足利工業高校のレスリング部に入って、寮の食事はずっと俺が作っていたんです。卒業後に全日本プロレスに入団して、3年ほどは後輩が定着しなかったから、ここでもずっとちゃんこ番や雑用をこなしていました。当時も『カレーちゃんこ』をメニューに加えるなど、おいしいものを作るということには自信があったんです」

 そして1年先輩の三沢が急死したことでプロレスへの情熱を失い、レスラーとしての活動を休止。セカンドキャリアに選んだのが「ラーメン屋」だった。

「例えば『ちゃんこ屋』であるとか、昔から人がやっているようなことをやりたくない性格。ラーメンを自分のレシピで作るというのは、誰もやったことがないだろうと」

 飲食業を始めようと思い立ち、たまたま借りた物件がラーメン屋だったことも幸いした。そして知り合いの中華料理店で短期間だが修業させてもらった。

 開店にこぎつけたのは10年6月12日である。看板メニューはラーメンと鶏の唐揚げで、店名はレスラー時代の愛称・デンジャラスKにあやかって「麺ジャラスK」とした。立地は最寄りの成城学園前駅から少し離れていたこともあり、3台分の駐車場も確保した。

 こうして意気揚々とオープンしたが、想定外の事態が次々と川田を苦しめることになる。

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