野村の600号記念日の夜、神宮球場のヤクルト対巨人戦には4万9000人のファンが詰めかけていた。大観衆から巨人・長嶋茂雄新監督が試合後にヤジ・怒号を浴びていた。激励の歓声はかき消されていた。
1対3で敗れた。2度目の4連敗。この時点で33試合を消化して10勝20敗3分、勝率.333、借金10は36年の球団創設以来、史上初の屈辱だった。4月12日から最下位に転落してこの日で42日目だった。
長嶋は74年10月14日、「わが巨人軍は永久に不滅です」という名言を涙とともに残して現役を引退した。
11月21日、巨人の第10代監督に就任した。38歳だった。川上哲治V9監督の勇退を受けて後を継いだ。キャッチフレーズはファンを意識した「クリーン(鮮やか)・ベースボール」だった。
新監督の意気込みは空転した。主力選手の高齢化で戦力が落ちていた。V9のツケで若手選手の育成が疎かになっていた。投手陣と打撃陣がそろって不調だった。
開幕前には主砲・王が軸足の左ふくらはぎに肉離れを起こして戦列を離れた。痛い離脱だったが、なにより「長嶋」がいない巨人を率いたことが大きく響いた。
しかし、長嶋人気はすごかった。新年の多摩川の初練習にはファン1万5000人が集まった。開幕すると、長嶋新監督が率いる巨人を一目見たさにファンが詰めかけた。
「弱い巨人」に野球ファンのみならず、関心のないファンまで注目した。期待されていただけに、反動は何倍にもなって跳ね返った。社会現象にまでなった。
監督人生の初年度は優勝した広島に27ゲーム差を付けられた。巨人史上初の最下位である。現役時代はファンに愛され続けた長嶋もマスコミから批判の嵐に晒された。「名選手、名監督にあらず」とも評された。
だが、ファンは見捨てなかった。シーズン283万人の観客動員新記録を達成する。そして長嶋は逆境から巻き返していく。
翌23日のスポーツ各紙の1面は、25日の「第42回ダービー」に出走する狂気の逃げ馬と呼ばれたカブラヤオーの話題が独占していた。2、3面に「長嶋巨人」の記事が掲載されて、「野村600号」は4、5面の扱いとなっている。負けた巨人がそれでも前のページを占めたのだった。
月見草とヒマワリが指揮官として激突するのは、18年後の93年からである。昭和から平成のプロ野球を力いっぱいけん引した2人の「スーパースター」を追いたい。
(敬称略)
猪狩雷太(いかり・らいた/スポーツライター)スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。