相手が何の準備も心構えもなく無防備な状態を狙い、一気に攻め落とす。「まさか、こんな時に‥‥」と虚を突かれた側はどう抵抗したのか。
「『河越夜戦(かわごえよいくさ)』は、こうです。初代の北条早雲が伊豆、相模を手に入れて、その二代目の氏綱(うじつな)が武蔵国に勢力を伸ばしていました。もともと関東管領(かんれい)家だった山内上杉家は同じ一族の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と駿河(するが)の今川義元、さらに関東の権威だった古河公方(こがくぼう)を味方につけて、今川義元には駿河の北条方の長窪城を攻めてもらい、両上杉・古河は総勢8万もの連合軍でもって、北条の北関東の拠点・河越城を取り囲んだのです。北条氏の三代目の氏康(うじやす)は、長窪城を取り囲んでいた今川と和睦して、河越の援軍に駈けつけますが、まずは本格的な戦いを避けて『河越城は差し上げるから、城の兵隊だけは助けてほしい』という申し入れをして、そのうえ敵の陣に遊女や商人を送って連日宴会をするようにしむけ、上杉連合軍を油断させます。氏康はこのタイミングで一気に夜襲をかけ勝利します」(河合氏)
まさに「こんな夜中に戦かよ!」の心境だったろう。ただ、信頼できる当時の史料が一切残っていないため、夜襲だったかどうかは、実は議論があるという。
一方で房野氏は、
「ひと言で言えば北条氏康って三代目が10倍以上の敵をぶっ倒したっていう戦いですが、二代目の氏綱が河越を拠点に武蔵国を支配して、周りにめちゃくちゃ敵を作ったところで亡くなってバトンタッチ。きっと氏康は『親父、こんなにしちゃってから死ぬなよ!』って言ったと思います(笑)。敵に囲まれた河越城にさっそうと駆けつける氏康、カッコいいんですよ。今、上司にしたい武将アンケートをとると、1位に氏康が入るくらい人気で、僕も好きです」
戦国の好敵手、甲斐(山梨)の武田信玄と越後(新潟)の上杉謙信(長尾景虎)が12年もの間、5度にわたって戦いを繰り返した川中島の戦い。最も有名なのが、第4次合戦だ。
河合氏が解説する。
「謙信は1万8000の軍勢を率いて春日山城を出発し、途中の善光寺平に5000の兵を置き、残りの1万3000の軍勢で千曲川、犀川を渡って妻女山(さいじょさん)に本陣を置きます。その情報を受けて、信玄も1万7000の兵を率いて甲府から海津城に入った。城には3000の兵がいましたから武田は合計2万の軍勢。信玄はなんとしても決着をつけようと、妻女山に立てこもっている上杉軍に対して、1万2000の別働隊を大きく迂回させて謙信の背後から奇襲をかけ、本隊と挟み撃ちにする作戦でした。一方、上杉軍はその前の晩に武田の奇襲を察知して、妻女山上の陣にかがり火をたいてカモフラージュしつつ、深夜に音を潜めて山を下り、武田の本陣へ先手を打って逆奇襲をかけます」
この妻女山を下りる際に上杉軍は、馬の轡(くつわ)に布を巻き、馬の舌を縛って、鞭も使わず静かに漆黒の千曲川を渡ったといわれ、これがのちに「鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)夜河(よるかわ)を渡る」と頼山陽が詠んだ有名な場面に。
「早朝6時頃、霧の晴れるのを待って突然、川を渡り上杉軍が襲撃。これで危機に陥る信玄ですが、武田の別働隊が到着すると、再び形勢は逆転して、上杉軍はサーッと引いて勝敗はつかないまま。謙信が太刀を持ってただ一人で信玄の陣に乗り込んで斬りつけ、その太刀を信玄が軍配で受けたという名場面は、残念ながら、のちの創作のようですね」(河合氏)
河合敦(かわい・あつし)1965年、東京都生まれ。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。多摩大学客員教授。早稲田大学非常勤講師。歴史作家・歴史研究家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。主な著書:『早わかり日本史』(日本実業出版社)、『大久保利通』(小社)、『日本史は逆から学べ《江戸・戦国編》』(光文社知恵の森文庫)など。
房野史典(ぼうの・ふみのり)1980年、岡山県生まれ。名古屋学院大学卒業。お笑いコンビ「ブロードキャスト!!」のツッコミ担当。無類の戦国武将好きで、歴史好き芸人ユニット「六文ジャー」を結成し、歴史活動も積極的に行う。著書に『超現代語訳戦国時代』『超現代語訳幕末物語』(ともに幻冬舎文庫)、『戦国武将の超絶カッコいい話』(王様文庫)がある。