東京アラートが早々に消えたからといって、コロナとの戦いは、まだまだ油断禁物。戦国武将たちが「なかったことにしたい」合戦は、油断によって一敗地にまみれた痛歴史でもある。
「戦の失敗の原因は、戦術や戦略よりも、たいていの場合、敵を見くびり油断したことが原因」
と、歴史家の河合敦氏は言う。
駿河、遠江(とおとうみ)、三河を支配していた今川義元の2万5000の大軍が、尾張の「うつけ」(馬鹿者)と言われていた織田信長のわずか2000の軍勢にあっけなく敗れてしまった「桶狭間の戦い」は、その代表例だ。
「なぜ敗れてしまったのかは諸説ありますが、最新の研究では、従来言われてきた高台からの信長の奇襲ではない。『信長公記(しんちょうこうき)』を読むと、義元は桶狭間山(おけはざまやま)という山の上に陣を張っていて全体が見えていたにもかかわらず、信長軍に正面から攻め込まれ、首を取られて敗れたということになります。暴風雨直後の攻撃のうえ、山の下にいたのは輸送を担う農民ら雑兵だったので、いきなり攻め込まれて動揺したことも大きかったようです。さらに新説として、『信長公記』には、柴田勝家ら重臣たちの姿が描かれていない。彼らは彼らで他の戦場で戦っており、織田軍は今川軍に匹敵する大軍で、決して多勢に無勢というわけではなかったというものです」(河合氏)
ともあれ、今川義元からすれば、鷲津砦(わしづとりで)、丸根砦を取って、これは楽勝だと思い込み、その油断が敗因だったというのが定説。結局、義元は、戦国時代前半のハイライト、信長の登場を鮮やかに印象づける「桶狭間の戦いの敗者」として、日本史にその名を刻んでしまった。こんな不名誉は絶対に「なかったことにしたい」だろう。
「ポンコツ武将列伝」(柏書房)などの著書がある歴史ナビゲーターのれきしクンは、
「今川義元に落ち度はあまりなくて、運が悪かったという気がします。大河ドラマ『麒麟がくる』でも、ごはんを食べて油断していたというふうに描かれていましたが、大高城から沓掛城まで細長い隊列になっていたとはいえ、本陣も固めていたので、油断していたわけでもないと、僕は思います。本来はものすごく強いすばらしい武将です。しいて言えば、天候が崩れたことと、信長の行動力が尋常じゃなかったことが敗因で、義元にしたら、なんで負けたのか意味がわからない状態だった、と思われます」
れきしクンら歴史好き芸人で結成したユニット「ロクモンジャー」のメンバーで、信長ファンの桐畑トール氏も、
「僕なんか『信長の野望』などの戦国ゲームをよくやりますけど、なかなか桶狭間の戦いは成功しません。(戦力的に)織田家は今川にすぐに潰されますからね」
それほど、番狂わせの戦いだったのだ。
桶狭間の戦い、河越夜戦(かわごえよいくさ)と並んで、戦国の日本三大奇襲の一つ「厳島(いつくしま)の戦い」も、多勢に無勢をひっくり返した合戦だが、綿密に計算された諜報戦、頭脳戦に敗れたと河合氏は言う。もともと主君の大内氏を倒して中国地方の制覇をもくろんでいた陶晴賢(すえはるかた)は2万の大軍を擁しながら、わずか4000の毛利元就軍に、大軍を展開しにくい厳島までおびき出されて敗北してしまったのだ。桐畑氏が続ける。
「毛利元就は、自分の配下の武将を敵に寝返らせたように見せ、スパイとして送り込んでウソの情報を流したりしてますね。ウソと言えば、僕なんかも伊集院光さんの草野球チームに入ってて、バッターボックスに立って、自分の得意な球がズバーンときて見送った時。相手チームの若いキャッチャーには『うーん、あそこに投げられたらキビシイなあ』なんてわざとウソを言うと、次にまた決め球をそこに投げてくるから、こっちはそれを狙い打ちにする老獪な野球をやってます(笑)。陶晴賢は、そんなウソに『やられた』と思ったに違いありません」
桶狭間に勝った信長は、その後、京に上り天下統一を目前にしながら、家臣の明智光秀に裏切られる。みずから本能寺に火を放って燃え盛る炎の中で「是非に及ばず」と言い放ち、自刃(本能寺の変)。これもまた、信長の油断が引き起こした事件だった。河合氏は言う。
「信長にしてみれば、京都は自分の庭にいる感覚で、まさか殺されるようなことになるとは思っていない。わずか150人の手勢を置くだけで本能寺に宿泊していたわけです。秀吉の中国攻めの援軍に向かうよう命じた最も信頼していた明智光秀が、突然1万3000の兵を率いて攻めてくるなんて、想像もしていなかったと思います」
信長はここまでに何度も、部下である荒木村重や松永久秀、浅井長政らの家臣や同盟に裏切られてきているのに、なぜこうも無防備だったのか。
「信長は人を信じすぎる性格だったという説もありますが、私は『KY』だったんじゃないかと思います。空気が読めない、人の気持ちがわからない人だから、光秀の気持ちもわからなかった」(河合氏)
信長が、かつて勝利した桶狭間とは全てが真逆になってしまったのは、歴史の皮肉と言うほかない。
一方、信長を討った明智光秀も、本能寺の変のあと、「信長死す」の知らせを受けた秀吉が急遽、毛利と和睦して高速で京に引き返す(中国大返し)。光秀は山崎の戦いに敗れ、敗走の途中で殺されることになるのはあまりに有名な話だ。のちに「明智の三日天下」「裏切り者」として現代にまで語り継がれている。
れきしクンに、光秀の謀反の動機には、怨恨説、天下取りの野望説、朝廷黒幕説など諸説あるが、どの説を取るのかと聞くと、
「僕は光秀の野望説を取ります。光秀と朝廷が組んで信長暗殺を計画していたという黒幕説とかはあまり信じられない」とし、そのうえで、
「光秀は秀吉よりも先に出世しているすごい武将で、あれだけきれいなクーデターって日本史上で他にない、ここしかないというワンチャンスに賭けて挙兵しています。ただ、いろいろ準備をする前に突然チャンスが来た、という感じだったとは思います。下剋上の時代、他の武将たちも主君や上司を殺して成り上がっていくことがあるわけで、光秀も戦国武将として当然のことをしたまでかと思います」
桐畑氏は諸説フンプンの中、考え込んだ。
「うーん、どの説もそれなりに説得力があるし、最近有力な説では四国の長宗我部元親と話し会いを進めていた光秀を無視して長宗我部を攻めることになったりして、信長様が言うことを聞いてくれなかったからという説もあります。けど、今年の大河ドラマで、この戦国最大の謎をどう解釈するのか、今からワクワクしてるんです。僕としてはどの説もおもしろいし、新説が出てきても『そう来るか!』という楽しみがありますね」
関ヶ原の戦いで敗れた石田三成が、それ以前に「なかったことにしたい」戦は、忍城(おしじょう)攻めの失敗だろうと河合氏は言い切る。
小田原攻めの際に武蔵国(埼玉県行田市)の忍城攻めでは、秀吉の真似をして、川の水を引き込んで石田堤(いしだづつみ)と呼ばれる堤防を築いて水攻めをするのだが、堤防は壊され石田軍は300人近くの死傷者を出してしまう。
「この失敗で三成は、『戦下手(いくさべた)』というレッテルを貼られてしまいました」(河合氏)
地元・滋賀出身の桐畑氏は石田三成びいきを前面に押し出して、
「頭はすごくよかったし、太閤検地など、お役人、政治家としての能力はすごかった。でも、武闘派の福島正則とかに嫌われたり、関ヶ原では小早川秀秋らの寝返りにあったりして負けたのも、ただ、ものの言い方に険というかトゲがあったからなんでしょうね。現代で言うと、ちょっとホリエモンみたいなところがあるのかなぁ。間違ったことは言ってないけど、なんか周りをイライラさせてしまうというところがね(笑)」
戦国武将の「黒歴史」の裏に人間ドラマあり。
河合敦(かわい・あつし)1965年、東京都生まれ。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。多摩大学客員教授。早稲田大学非常勤講師。歴史作家・歴史研究家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。主な著書は「早わかり日本史」(日本実業出版社)、「大久保利通」(小社)、「日本史は逆から学べ《江戸・戦国編》」(光文社知恵の森文庫)など。
れきしクン(長谷川ヨシテル)1986年、埼玉県生まれ。漫才師としてデビュー。現在は歴史ナビゲーターとして、テレビ・ラジオ、各種イベント出演のほか、歴史番組・演劇の構成作家、歴史ゲームのリサーチャーも務めている。著書「ヘンテコ城めぐり」(柏書房)、「あの方を斬ったの…それがしです 日本史の実行犯」(KKベストセラーズ)など。
桐畑トール(きりはた・とーる)1972年、滋賀県生まれ。滋賀県立伊香高校卒業後、上京し、お笑い芸人に。05年、オフィス北野に移籍し、相方の無法松とお笑いコンビ「ほたるゲンジ」を結成。戦国マニアの芸人による戦国ライブなどを行う。「伊集院光とらじおと」(TBSラジオ)のリポーターとしてレギュラー出演中。現在、TAP(元オフィス北野)を退社しフリー。