前駐豪大使・山上信吾が日本外交の舞台裏を抉る!~歴史認識問題の“呪縛”~

 また、暑い8月がやってきた。

 書店の棚には戦争物、歴史物の本が所狭しと並ぶ季節だ。

 蝉時雨の中、思いは広島、長崎の惨禍、そして大東亜戦争での未曽有の敗戦に及ぶ。昭和20年(1945年)の夏もこんなに暑かったのだろうか? 1961年生まれの私には知る由もない。それどころか、「あの戦争」さえ知らない。そんな世代であっても、外務省に奉職した40年間、「歴史認識問題」から解放されることは決してなかった。そして、敗戦の桎梏が日本外交の手足を縛る有様を忸怩たる思いで目の当たりにしてきた。

 なぜなのか? 反日勢力がしたり顔で説くように、旧日本軍の所業がそれほどまでに残虐で非道だったからなのか?

 国際標準に照らせば、そうは思わない。むしろ、大東亜戦争についての歴史認識が日本国内で分裂しており、片付いたはずの戦後処理が何度も蒸し返されてきたからだ。その意味では、外交問題である前に国内問題なのだ。

 戦後処理の歩みを振り返れば、連合国を相手としたサンフランシスコ平和条約(1951年)、日ソ共同宣言(1956年)、日韓請求権・経済協力協定(1965年)、日中共同声明(1972年)といった諸条約の締結を通じて、日本政府は誠実に取り組んできた。敗戦国として、賠償、自国財産の放棄、補償などに応じる一方、韓国や中国等への経済協力に寛大に対応してきたことは公知の事実だ。

 そもそも、戦後処理の肝は、こうした諸措置と一体となった「請求権の相互放棄」にある。戦争行為や植民地支配を通じて双方の国や国民に色々な被害が生じ、請求権が生じてきたが、条約の締結をもって「今後は一切請求を認めません」と互いに約束するのだ。そうでないと二国間関係の発展の基礎となる法的安定性が保てないからだ。

 ところが、実態はどうか?
慰安婦にせよ、徴用工にせよ、本来「完全かつ最終的に解決された」(日韓請求権協定第二条1)はずの問題が何度も蒸し返されては外交問題となり、謝罪と補償を繰り返してきた。

 そうした流れを日本政府として作ってしまったのが、歴史認識についての「村山談話」(1995年)であり、慰安婦問題についての「河野談話」(1993年)であったのではないか?

「他の国は謝っていなくても日本は違う。道徳的高みに立つのだ」という書生的な理想論に立ち、「植民地支配」や「侵略」にとどまることなく、慰安婦問題についての「強制性」まで認め深々と謝罪した。

 問題は、それで済まなかったことだ。謝罪は補償を求める声につながり、そして謝罪・補償とも一回限りで済まず、何度も対応を求められることとなった。

 当たり前だ。日本国内で吉田清治氏のような人間が出てきて、「日本軍は如何にひどいことをしたか」と強調し、メディアが拡散してくれる。相手国として、利用しない手はない。

 中国から帰化した石平氏が喝破したように、「歴史認識問題」とは、中国が日本という銀行から金を引き出す際の暗証番号と化したのだ。

 来年は戦後80周年。日本を取り巻く戦略環境の悪化は待ったなしだ。いい加減に、こんな繰り返しから卒業し、現下の最重要戦略課題に集中しなくてはならない。

●プロフィール
やまがみ・しんご 前駐オーストラリア特命全権大使。1961年東京都生まれ。東京大学法学部卒業後、84年外務省入省。コロンビア大学大学院留学を経て、00年ジュネーブ国際機関日本政府代表部参事官、07年茨城県警本部警務部長を経て、09年在英国日本国大使館政務担当公使、日本国際問題研究所所長代行、17年国際情報統括官、経済局長などを歴任。20年オーストラリア日本国特命全権大使に就任。23年末に退官。TMI総合法律事務所特別顧問や笹川平和財団上席フェロー、外交評論活動で活躍中。著書に「南半球便り」「中国『戦狼外交』と闘う」「日本外交の劣化:再生への道」(いずれも文藝春秋社)がある。

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