単なる健康維持のために始めた〝習いごと〟のはずが、これも稲田氏の性格ゆえなのか、水泳に没頭していく。
「最初は、カナヅチどころか、顔を水につけるのも恐怖でした。何せ、3メートルも泳げなかった(笑)。普通は壁を蹴るだけで5メートルぐらいは進むものですよね。それが、五輪選手を指導しているような名コーチに巡り会って一変しました。イロハをすべてレクチャーしてくれたんです。当時は妻の症状も悪化していないこともあり、介護の合間に1日2〜3回に分けてプールに通うようになって、気づけば、クロールと背泳ぎに始まり、平泳ぎやバタフライも習得していました」
人生に遅すぎることはないとはよく言うが、稲田氏を見ると、この格言もまんざら嘘ではないとわかる。3年もすると、200メートル個人メドレーを専門種目に練習するまでになっていた。
「当時は、60代で個人メドレーを泳ぐ人はいませんでした。各種目のタイムも速くなっていたので、コーチからマスターズに出る人たちのチームにも誘っていただきました。僕より速い人ばかりでしたが、何年かやっているうちにチームの中で1番になっていました」
全盛期は67歳だったそうで、シニアの祭典であるマスターズに出場。50メートル自由形とバタフライで日本記録に挑戦してみたが‥‥。
「結果的に両方ともダメでした。自由形は惜しかった! 32秒台が日本記録=世界記録でした。トップ選手と同じように息継ぎナシで臨んだのですが、わずか0コンマ数秒で届かなかったんですよ。仲間に撮影してもらった動画には客席から『速い!』という歓声が入っていて、少し照れくさかったですね(笑)」
すっかり水泳にのめり込んだ稲田氏だったが、実は、その最中にマラソンにもチャレンジしていた。
「64歳の頃に、茨城県の砂沼で『SWIM&RUN』というスイム1.5キロ、ラン10キロの大会にマスターズの仲間と面白半分で出ました。そうしたら、意外にも完走できた。練習をしていたわけでもないのに、ランもタイムが遅いなりに、ちゃんと走れたんですよね。そこから5年間連続で出場して、毎回高齢者表彰をもらいました」
そして、69歳の時に運命の出会いが訪れる。
「その大会にはトライアスロンに出る人もたくさんいて、会場までヘルメットを被ってロードバイクで来ていた。その姿が無性にカッコよく見えてね。いい年こいてさ(笑)。で、それを真似したくてロードバイクやヘルメット一式を、大枚はたいて買いそろえてしまいました」
翌年、古希にしてトライアスロンデビューを飾るまでになるのだ。
(つづく)