ベストセラー「方舟」(講談社)が各方面で絶賛された夕木春央の新作。大正時代の東京を舞台にした本格ミステリーである。
画家の井口は、自分の作品とそっくりの絵がアメリカにあることを知る。いったい誰が何の目的で盗作したのか。なぜアメリカにあるのか。その謎を探るうちに奇っ怪な殺人事件が井口のまわりで次々と起きる。全477ページの大長編だが、謎が謎を呼ぶ展開で一気に読ませる。
探偵役は井口とその友人の蓮野。蓮野は誰もが息をのむような美男子だが、元泥棒という異色の経歴。語学堪能で、いささかニヒルな厭世家(ペシミスト)でもある。このコンビに井口の活発な姪の峯子と、井口の画家仲間で陽気かつ下品な大月が加わる。
盗作された絵は、かつて井口が女優の岡島あやをモデルに描いたもの。井口たちは岡島に近づこうとするが、怒りっぽい彼女の扱いは簡単ではない。しかも、彼女は蓮野に特別な思いがあるようだ。
井口と蓮野は盗作の謎を追ううちに大規模な贋作事件を知る。井口が所属する美術家サークルの内部で組織的な贋作制作が行われていたのだ。事件は社会的なスキャンダルになる。贋作事件と盗作疑惑に関係があるのか、それとも別個の事件なのかがこの小説の大きな謎のひとつ。
美術家サークルのメンバーが何者かによって次々と殺されていく。しかも死体には奇妙な衣装が着せられている。何かのメッセージなのか。だとすれば、それは誰に向けてのメッセージなのか。どういう意味なのか。殺人犯は一人なのか、それとも複数なのか。
題名にあるサロメはオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」とそのヒロインを示唆する。新約聖書のエピソードを題材にしたワイルドの戯曲は、世紀末のイラストレーター、オーブリー・ビアズリーの挿絵でもよく知られる。
日本での初演は1913年、帝国劇場で松井須磨子がサロメ役を演じた。演出は島村抱月。19年、スペイン風邪で抱月が死ぬと、恋人だった須磨子は後追い自殺した。須磨子は美容整形とその後遺症に悩まされてもいた。夕木のこの小説は須磨子自殺の翌年の物語として書かれている。
物語の終わり近く「断頭台」と題された第10章が圧巻である。ここまで読んできた甲斐があった、と読者は感嘆するだろう。序章では井口の知人である孤高で異端の芸術家、深江の自殺が描かれるが、それを含めてすべての伏線が回収される。
この小説の魅力は謎の組み立ての巧妙さもさることながら、大正時代の東京という舞台設定にある。スマホやインターネットはおろか、一般の電話や自動車もまだ十分に普及していない時代。防犯カメラもないし、警察の鑑識能力も現代に比べると低い。しかし、だからこそ探偵の観察力や洞察力が生きる。逆にいうと、この100年で私たちが得たものは多いが、同時に、失ったものも少なくはないということである。
《「サロメの断頭台」夕木春央・著/2310円(講談社)》
永江朗(ながえ・あきら):書評家・コラムニスト 58年、北海道生まれ。洋書輸入販売会社に勤務したのち、「宝島」などの編集者・ライターを経て93年よりライターに専念。「ダ・ヴィンチ」をはじめ、多くのメディアで連載中。