実は石原氏は99年に都知事になる前に、一度落選を経験したことがある。対抗馬は、社会党・共産党が支持基盤だった美濃部亮吉氏。75年の都知事選のことである。政治部デスクが振り返る。
「社共共闘で3期目を目指していた現職の美濃部知事サイドは選挙対策を巡って両者が決裂。不出馬を宣言していた。ところが、自民党から石原が出馬することが決まると、『ファシストに都政を渡せない』と一転して出馬を宣言し、最終的には意地を見せた」
美濃部氏は学者としてNHKの教育番組に出演し、ミノベ・スマイルが売りの「元祖タレント知事」とも言える存在だった。
「世の中の右左が鮮明だった時代に庶民の味方を標榜する美濃部氏は拍手喝采で都知事に迎え入れられた。手厚い福祉政策で、高齢者には都バスの無料パスなどをバラ撒いたが、その赤字を回収するまでに長きを要した。こうした福祉政策は、ひとたび都民に渡せば既得権益となり都財政を圧迫する。まさに諸刃の剣なんです」(澤氏)
都知事の発案で青色の「美濃部カラー」に塗り替わった都バスだが、財政は真っ赤に染まってしまった。
「当時の国会は、自社対決の時代。党が主導して存在感を持っていた中で、庶民に人気のある美濃部都知事が出てきた。党の威光を借りて老人福祉や公営ギャンブルの廃止など、知事としての信念を貫くことができた。ただ、革新系の野党の財源はハッキリせず、後にバラ撒き福祉となることが多かった」(小林氏)
都バスを赤く塗り替えたのは79年から95年まで4期16年間務め上げた鈴木俊一都知事だ。
「美濃部憎しと保守政権が担ぎ出したのが官僚だった鈴木さんだった。失敗のない水漏れのなき政策は、堅実そのものだった。反面、官僚特有の『石橋を叩いて渡る』堅実すぎる政策は、発想に乏しく、結果的に都民の印象に残るような政策はなかった」(小林氏)
それでも、91年の都知事選では傘寿で出馬。高齢・多選の逆風を受けながら、NHKキャスター磯村尚徳氏を退け、実に84歳まで知事を全うしたのだ。
「鈴木知事は美濃部時代の負の財政の解消に奔走した後は、最後の大仕事として都庁舎を有楽町から西新宿へと移転させたんです。ところが、その東の下町に数多くの箱モノを置き土産に残した。これらの施設のランニングコストが都財政に悪影響を残すことになった」(澤氏)
その最たる負の遺産が臨海副都心の建設だった。鈴木氏の肝いりで、96年の3月から10月にかけてこの地で開催を進めた世界都市博に、待ったをかけ刷新を図ったのが、放送作家でタレントの青島幸男氏だった。小林氏が解説する。
「都民の50%以上の浮動票は長い官僚都政を打ち破って面白いことをやってくれそうな〝青島ばあさん〟に期待した。だが、佐川急便事件でのハンガースト以上のことはなかった」(小林氏)
しかも、意地悪ばあさんを地で行く開けてビックリ玉手箱的な政策は皆無で、うつむき加減で日に日に元気をなくしていく様子は、見るに堪えなかった。
「議会の猛反発を食いながら都市博中止を押し切り、男青島を見せたが、2信組には税金をブチ込んだ。そもそも都市博中止以外のビジョンはなく、本気で都知事になるつもりはなかったのではないか」(澤氏)
まさに「瓢箪から駒」で都知事になった悪しき例かもしれない。
*巨大権力「歴代都知事の仕事」を辛口ジャッジ(3)につづく