土屋圭市「高校生の時からピンク街でバイト」/テリー伊藤対談【3】

テリー 土屋さんは21歳でレースデビューでしょう。お金持ちの息子なんですか。

土屋 いや。だって高校の時、ずっと(夜のピンクな)サロンでバイトしてましたから。

テリー えっ、そうなんだ。いいですねぇ(笑)。高校生がアルバイトできた?

土屋 はい。16歳の時に親父に家を追い出されてるので。

テリー なんで?

土屋 親父が会社をやってるんですけど、親父は会社を継がせるために商業高校に行かせたい。僕は車をいじりたいから、自動車整備のある高校に行きたかった。それでケンカして家を追い出されて、16歳の時から昼間は工業高校に行って、夜はバイトして金を稼ぐっていう生活をしてたんですよ。

テリー 16歳でアパートを借りたの?

土屋 僕みたいなヤツが地元に5、6人いて。そいつらで6畳2間を借りて、そこからみんないろんな学校に行ってましたよ。

テリー そうなんだ。生きる力があるなぁ。それでお金を貯めて18歳で免許を取って。車は何を買ったの?

土屋 ハコスカ(箱型のスカイラインの略)ですね。50万円で。

テリー あの頃の50万円って今の140万とか150万ぐらいですよね。

土屋 時給115円でしたよね。

テリー 115円で50万か。遠いなぁ(笑)。

土屋 だから、掃除するのが好きだったんですよ。酔った客がズボンを脱ぐでしょう。そうすると小銭がチャリンチャリン落ちるんですよ。

テリー なるほど!

土屋 だから、他の従業員には「俺が掃除するから皆さん帰っていいですよ」って。落ちてる金を誰にも渡したくなかった。

テリー エラい! それがなかったら、世界の土屋にならなかったね。

土屋 そうですね(笑)。

テリー あとね、初歩的な質問ですけど、土屋さんは「ドリキン」(ドリフト・キングの略)でしょう。「ドリフト」って言葉は土屋さんが考えたの?

土屋 違いますね。今はもうなくなっちゃったんですけど、「CARBOY」っていう雑誌の編集長だった池田光雄さんっていう方が、僕の走りを見て「これはドリフトだ」と。そこからもう誌面では全部「ドリフト」って言葉が使われるようになったんです。

テリー その前は、「逆ハン」って言ってたでしょう?

土屋 そうですね。「ドリフト」って言葉は1984年にできたんですよ。

テリー その中で、なんで土屋さんだけがドリフトのキングになれたんですか。

土屋 1980年代ってタイヤも車もよくなってきてますから、「(車体を)滑らせるヤツは遅い。バカだ」と。そういう時代に入ってたんですよ。でも僕は、小学生の頃に高橋国光(くにみつ)さんを見て、この世界に入ってますから。

テリー 僕らにとってはカリスマですよね。

土屋 で、僕の中では高橋国光=ドリフトで「あれが速い」って思ってたんですよ。ずっと高橋国光さんの走りに憧れて滑らせてたんです。

テリー だけど実際、土屋さんが滑らせたら速かったんでしょう。その差は何だったの?

土屋 たぶん、みんなレーシングスクールとかで「ここでブレーキを踏まないと」って教えられるんですよ。でも、僕は星野一義(かずよし)さんの同乗走行に毎年乗ってて、星野さんはセオリー通りじゃないんですよ。オーバースピードで入って「滑ったら何とかすりゃいいだろう」って考えるんです。僕はそこにすごく魅了されたんですよね。だから、どこをどうすれば何とかなるかっていうのは、すごく勉強しましたよね。

*テリー伊藤対談【4】につづく

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