この2人を〝音楽的革命児〟と位置付けるのは芸能評論家の宝泉薫氏だ。
「60年代の安保闘争が幻想のように崩れた時代に登場し、政治ではなく音楽的な革命を起こしたのが拓郎と陽水だった。まさに時代の空気感にピッタリだった」
72年1月に発売した「結婚しようよ」の大ヒットにより、拓郎の元にはテレビ界から次々と出演依頼が殺到することになる。だが‥‥。
「拓郎の最初の大きな革命はテレビに出ないということです。当時、テレビに出ないということは自分の首を絞めるも同然だったが、あえてそこに挑戦し、月刊『明星』など芸能誌にも出なかった。本来なら生意気な奴だと消されてもおかしくないところですが、逆にいいぞやれやれと拓郎を熱烈に応援する若者は多く、その支持を受け、拓郎はタブーを破ってみせた。その後ニューミュージック系アーティストがテレビ出演を控えたが、元はと言えば拓郎が最初にやったことでした」(富澤氏)
しかし、それでも歌謡界から拓郎コールがやまなかったのは、時代のカリスマゆえの宿命と言えよう。そこで、拓郎が選んだのが演歌歌手の森進一(74)への楽曲提供だった。このミスマッチとも言えるタッグが、森の代表作「襟裳岬」のスマッシュヒットになったことを鮮明に覚えている読者も少なくないだろう。
「当時は歌謡曲がメインの時代、フォークは若者が聞くポッと出のようなもの。いわばメジャーリーグからマイナーに依頼が来たようなものです。結果的に『襟裳岬』は74年のレコード大賞を獲ることになるが、当時は、演歌を含めた歌謡曲勢が牛耳るレコード大賞に風穴を開けたのが拓郎だった。つまり拓郎が歌謡界の天下を取ったということです。その後、中島みゆき(70)、松任谷由実(68)、陽水も歌謡曲の楽曲提供をすることになるが、最初にやってのけたフロンティアは拓郎だったのです」(富澤氏)
フォーク歌手が、歌謡曲の歌い手に楽曲提供する「ヒットの法則」が生まれると、次々とオファーが舞い込んできた。76年の梓みちよ「メランコリー」を皮切りに、77年キャンディーズ「やさしい悪魔」は累計50万枚を超える大ヒットに。78年にはアイドルの石野真子が「狼なんか怖くない」を熱唱。不安定な音程に拓郎の楽曲というギャップにハマるファンが続出。歌謡界を席捲するヒットメーカーとして認知されるに至った。
「拓郎はフォークと歌謡曲を合流させた人。それ以前のメッセージ性の強いフォークとは違ってエンタメ性が強く、対立構図で語られていた2つの音楽ジャンルが、拓郎1人により一体化することになった。その後多くのフォーク系からの歌謡曲への楽曲提供が増えていく。音楽シーンはニューミュージック、J─POPへと変わったが、その流れを加速化させたのは先駆者・拓郎がいたからだった」(宝泉氏)
まさに拓郎の出現は歌謡界のルールが一変するほどの音楽革命だったのだ。
「当時の若者は拓郎派、陽水派で分かれていたが、やはり第一人者は拓郎です。象徴的なのは『僕の髪が肩まで伸びて〜』と歌った『結婚しようよ』で、その後本当に白いスーツにレイバンのサングラス姿で軽井沢の教会で結婚してしまった。当時、それを真似した若者も多かった。80年代のユーミンがその後若者トレンドセッターと呼ばれたが、元祖はやはり拓郎だったんです」(富澤氏)
チューリップハットにベルボトムのGパンで誰もが拓郎になれると信じていたのだ。
*「吉田拓郎と井上陽水」それぞれの引き際(3)につづく