次に、拓郎が仕掛けた革命はレコード会社の設立だった。75年6月1日、小室等(78)、陽水、泉谷しげる(74)の4人のミュージシャンが新規のレコード会社を立ち上げたのだ。
「このフォーライフの衝撃はすごかったですね。まるでビートルズが自前のレコード会社アップルを設立したのと同じことをやったわけですから。自分たちの好きな音楽をやる環境を作るために4人で集まったわけですが、既存のレコード会社からの反発が強烈で、最初はどこも販売網を手助けしなかった。何とかキャニオンレコードが手助けしてくれることになったが、拓郎は業界の圧力をものともせず新しい道を切り拓いたわけです」(富澤氏)
しかし、そのフォーライフは決して順風満帆ではなかった。翌年暮れに発売された4人のジョイントアルバム「クリスマス」は30万枚を見込んだが10万にも届かず大赤字。77年には、拓郎は「俺がフォーライフを再建する」と音楽活動を中止し、社長業に専任した。ところが、盟友の泉谷とケンカ別れ、陽水は薬物所持で逮捕、まさに波乱万丈だった。
「フォーライフはアーティストがレコード会社を経営することで、自分たちの好きな音楽をできる力を持てるはずだった。が、そうはならず、むしろアーティストが経営者になることで芸術性が薄れてしまった。くしくもアーティストがビジネスに乗り出すと失敗する最初の例になったけど、そこにむしろフォーライフ設立の意味はあったと思う」(宝泉氏)
2人の革命児には痛恨の挫折だったに違いない。
「フォーライフの設立は陽水の『氷の世界』がミリオンセラーを記録した直後だった。インタビューで陽水は所属するレコード会社のポリドールが『ヌクヌクって感じで。スリルがなかったから』と独特な表現で参加理由を語っている。さらに『4人そろってダメになれば面白い』と、その後を暗示するようなことまで語っていた。もちろんシニカルな陽水だけに本気の発言ではなかったのでしょうが‥‥」(芸能デスク)
座礁寸前のフォーライフを前に、ギターを置いて経営に乗り出した拓郎、一方でコンスタントにアルバムを出しながらも薬物逮捕で失速してしまう陽水。良くも悪くも2人の音楽への姿勢の違いが色濃く出た出来事だった。
宝泉氏がその後の2人の音楽性についてこう締めくくる。
「拓郎はずっと拓郎。デビュー当時の『結婚しようよ』や『旅の宿』から50歳を過ぎてのKinKi Kidsとの『全部だきしめて』まで、ずっと青春音楽を貫いている。対して陽水は『傘がない』などメッセージ的なものをどんどん捨て、『いっそセレナーデ』『少年時代』などアダルトに変わっていった。そこが2人の大きな違いです」
この相違こそが、75歳を過ぎて最後の花火を打ち上げた拓郎と、隠遁生活でフェードアウトしようという陽水の違いなのだろうか‥‥。
*「週刊アサヒ芸能」7月14日号より