日本の音楽シーンに多大な影響を与え、今なおコンサートチケットがプラチナ化する巨人・井上陽水。デビュー50周年という節目においても陽水は気負いなく、独自のシニカルな視点と、そして圧倒的な存在感を発揮する。比類なき才能はいかに誕生し、そして日本初の100万枚アルバムに結実したのか─。
キャンディーズ時代の伊藤蘭が、井上陽水(70)にこんな質問を寄せている。
「あの美しいメロディはどうやって作るんですか?」
陽水はトップアイドルを相手に平然と答える。
「五線譜の上におはじきを放り投げて、それをメロディにしています」
作り出す楽曲や容貌のクールさとは違う、人を食ったような一面。これこそが〝陽水流〟でもある。
PUFFYに提供した「アジアの純真」(96年)の冒頭の歌詞は〈北京ベルリンダブリンリベリア〉と、よく読めば意味をなさない。あるいはドラマ主題歌になった「リバーサイドホテル」(82年)に使われる〈金属のメタル〉や〈川沿いリバーサイド〉といった重複のフレーズも、たびたび議論の対象になる。
音楽評論家であり、75年に「俺の井上陽水」を著した富澤一誠は、デビューの段階で〝遊び心〟が満ちていたと回想する。
「シングルで初めてベストテン入りした『心もよう』(73年)は抒情派のメロディと美しい歌声が特徴ですが、それだけではなくサウンド志向も強かった」
まだ井上陽水ではなく「アンドレ・カンドレ」の名義で出したデビュー曲「カンドレ・マンドレ」(69年)のサビはこうだ。
〈カンドレ・マンドレサンタリ・ワンタリアラホレ・ミロホレ 1234 ABCDEFG〉
リズムこそ軽快だが、まるで呪文のような言葉を連呼する。富澤は、この曲から「アジアの純真」まで一本につながっているのは、その遊び心だと説く。
そんな陽水の原点は、生まれ育った福岡の地にある。昨年5月31日に亡くなったRKB毎日放送の元ディレクター・野見山実は、海援隊やチューリップ、椎名林檎ら多数のアーティストを発掘したことで知られる。野見山は生前、筆者に「陽水との出会い」を聞かせてくれた。
「私がやっていた『スマッシュ!!11』というラジオの深夜番組で、プロになりたい若者たちに声をかけたんです。そして番組開始直後の69年4月、夜中の1時過ぎに陽水は『曲を聴いてほしい』と乗り込んできました。あの大きな体にゴム草履でボサボサの髪ときたら、威圧感がありましたね」
オープンリールに録音されたオリジナルは、歌声よりも近くの電車の音のほうが大きかったが、歌詞とメロディに光るものがあった。野見山は局のスタジオで録音をやり直させて、CBS・ソニーの営業担当に渡す。それがきっかけでデビューが決まり、陽水は晴れて上京する。
そのことに誰よりも安堵したのは陽水だった、と野見山は言う。
「父親が歯科医を開業していて、長男の陽水はそれを継ぐことが義務づけられていたが、すでに歯科大へは三浪の身。受験勉強に熱が入らず、パチンコで毎日を過ごす状態でしたから、これで歯科医をあきらめられると思ったんですね」
陽水は高校受験の勉強中に耳にしたザ・ビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」によって生活が一変する。寝ても覚めてもビートルズ一色であり、そのことが類いまれな音楽センスを形成する。
富澤はデビュー直後の陽水から、こんな言葉を聞いたことがあった。
「ポール・マッカートニーがあのままの形でやっても日本では成功しない。それを日本風にしたのが僕だ」
堂々の宣言であった。
石田伸也(文中敬称略)