井上陽水「音楽巨人の50年秘録」(3)「風あざみ」は陽水の造語だった

 今でこそ違和感なく使われる「心もよう」という表現は、陽水の初ヒットシングルに由来する。歌詞には一度も出てこないが、タイトルはディレクターである多賀の造語であった。

 制作に関わった川瀬は、さらに多賀の慧眼に驚く。

「このシングルのB面は、忌野清志郎と1フレーズずつ共作した『帰れない二人』で、陽水も僕らもこちらをA面に推したんです。ところが、多賀さんだけ『心もよう』を主張した。結果は若者の生々しいもどかしさや苛立ちを描いた『心もよう』が時代の空気をとらえてヒットにつながりました」

 それでも、陽水のサウンド志向は強く、以降のライブで「心もよう」は披露されることが少なくなった。富澤は陽水と会った時に、なぜ抒情派ソングの傑作である「心もよう」を歌わないのかと問うた。

「あれは〝青春のざれごと〟だから」

 陽水はそう答えたという。以降、陽水の表現力はさらに研ぎ澄まされたものとなり、シングルで最大のヒット曲となった「少年時代」(90年)にも、その一端が表れる。

 冒頭に出てくる「風あざみ」は誰もが疑問を持たずに口ずさむが、実は「風あざみ」という日本語は存在しない。陽水の感性による造語が、圧倒的な歌唱クオリティと相まって浸透した形となる。

 さて、初のミリオンセラーを達成した直後の70年代半ば、陽水は激動の日々を送ることになる。75年に吉田拓郎、小室等、泉谷しげると「フォーライフ・レコード」を設立。日本初のアーティスト主導によるレコード会社として注目された。

 だが、翌76年2月に最初の夫人と離婚。77年9月には大麻所持容疑で逮捕されるなど、どん底の日々も味わった。

 その窮地を救ったのは、30歳の誕生日に再婚した石川セリとの出会いである。陽水はセリの目の前で、わずか30分ほどで「ダンスはうまく踊れない」(77年)を作り、縁結びの曲となる。

 同曲は82年に女優・高樹澪がカバーし、50万枚を超える大ヒットを記録。高樹が、カバーへの経緯を明かす。

「私のアルバム用にカバーの許可をいただいたんです。ところが、大映テレビのプロデューサーがこの曲を気に入り、TBSの『金曜ミステリー劇場』の主題歌になったことで火がついてしまった。当初の話と違ったことで私は戸惑ったんですが、後日、石川セリさんにお会いした時に『あの歌をあんなに広めてくれてありがとう』と感謝されたのでホッとしました。陽水さんにもお話をうかがった時に『セリさんも高樹さんも、僕が作ったのと違う歌い方をされるんですよね』と、むしろうれしそうに言っていただいたのが印象的でした」
 
 80年代に陽水は、中森明菜や安全地帯への楽曲提供をきっかけとした〝第2次陽水ブーム〟を巻き起こし、アルバム「9.5カラット」(84年)は2作目のミリオンセラーに。さらに、99年発売の2枚組「GOLDEN BEST」は200万枚以上を売り上げ、3つの年代をまたぐ〝第3次陽水ブーム〟に結びつく。

 そして現在、陽水は完売続出の50周年記念ライブツアーを全国で展開中。近年もきゃりーぱみゅぱみゅのサウンドを評価し、今をときめくあいみょんと同じステージに上がるなど、その感性は古希を迎えてなお若々しいままだ。

 過去に何度も依頼され、すべて「恥ずかしいから」の理由で断ってきた「紅白歌合戦」に、50周年の今年こそミラクルは起こるだろうか─。

石田伸也(文中敬称略)

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