社会的な大事件であれ、身のまわりの小さなことであれ、こんな時あの人ならどう言うだろう? と思う。あの人とは内田樹。思想家で武道家。その言葉のひとつひとつが意外でもありながら腑に落ちる。禅林の高僧のようでもあるし、横丁のご隠居のようでもある。
本書はさまざまな媒体に発表した文章に加筆したもの。著者曰く、コンピレーション本。内容は多岐にわたる。筆者がグッときたものをいくつか紹介しよう。
例えば「『ダメな組織』の共通項」というエッセイ。大学教育が劣化しているという話が入り口だ。劣化の原因は「教育研究を中枢的に統御し、管理しようとする欲望」にある。
これはちょっと考えればわかること。管理と創造は相性が悪い。というか真逆だ。なぜなら、いまだないものは自由な発想から生まれ、管理とはその自由な発想の芽を摘むことだからだ。前例踏襲ばかりの管理社会から新しいものは決して生まれない。
軍隊には督戦隊というものがあるのだそうだ。筆者はこのエッセイで初めて知った。前線から逃げ出そうとする兵士に銃を向け、「戦い続けろ、さもないと撃ち殺す」と脅すのが仕事だそうだ。
ダメな組織は「督戦隊が多すぎて、闘う兵士が手薄になった軍隊」のようなもので、学校をはじめ今の日本のいろんなところに転がっている。「ガバナンス」なんて便利な言葉が流行ったせいか、がんじがらめに管理しようとする組織が増えている。自分が所属している組織が「ダメ」だと思ったら、すぐ逃げ出したほうがいい。
本書の中の〈村上春樹が描く「この世ならざるもの」〉は最も簡潔にしてわかりやすく本質を突いた村上春樹論だ。
村上春樹は地下深く潜ることができる希有な作家だという。もちろんこの「地下」は比喩で、つまり「この世ならざるもの」の世界。村上春樹が書く小説はどれも「境界線の向こう側まで行って、そして戻ってくる」物語である。初期の「羊をめぐる冒険」から最新作の「街とその不確かな壁」まで一貫している。
そして、このパターンの小説は村上作品に限らない。内田樹はレイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」やF・スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」をあげている。村上はこの2作品を翻訳している。「羊─」に出てくる「鼠」や「ロング・グッドバイ」のレノックス、「グレート・ギャツビー」のギャツビーは、いずれも主人公のアルターエゴなのだと内田樹は指摘する。
アルターエゴというのは自分の中のもう一人の自分だ。つまり村上春樹の小説は自分の分身(たいていは少年時代の自分)に別れを告げる物語というわけだ。
内田樹はこのエッセイで河合隼雄や上田秋成や江藤淳についても言及しているのだが、筆者はこれらを猛烈に読みたくなってきた。こういう読書欲を刺激するところも、内田エッセイの魅力である。
《「だからあれほど言ったのに」内田樹・著/1110円(マガジンハウス新書)》
永江朗(ながえ・あきら):書評家・コラムニスト 58年、北海道生まれ。洋書輸入販売会社に勤務したのち、「宝島」などの編集者・ライターを経て93年よりライターに専念。「ダ・ヴィンチ」をはじめ、多くのメディアで連載中。