元フジ・寺田理恵子を直撃「コールセンターのアルバイトを経て朗読教室講師に」/人気女子アナ「第二の人生」を徹底追跡

「オレたちひょうきん族」をはじめ、数々のバラエティーに出演してフジテレビの“黄金期”を支えた寺田理恵子氏(62)。89年のフリー転身後、波乱万丈の人生を歩んでいた。

─今年1月に上梓したエッセイ「日々の名作音読で人生の深みを知る」(さくら舎)が好評です。現在の肩書はエッセイスト?

寺田 おかげ様でこの3年間で本を4冊も出させていただきました。講演やユーチューブなど、いろんなことにチャレンジしてきましたが、しいて言うなら朗読教室の講師でしょうか。始めた頃は生徒さんが4人しか集まらなかったのが、今では8クラスで約80人に教えています。一人一人と向き合ってきめ細かく指導するには1クラス10人が精一杯なんです。

─朗読の先生も、かつてはひょうきんアナでした。

寺田 若かったこともあって「ひょうきん族」のことはあまり覚えていないんです。ワーッと収録が始まってワーッと終わって、反省会でワーッとディレクターに怒られて(笑)。「出たMONO勝負」という通販番組で愛川欽也さんのアシスタントをしながら、レポーターとしていろんな国に行かせてもらったのは、いい思い出です。高田純次さんと共演した「純ちゃんのごぶサタデー」で生放送の情報番組の楽しさを知ったのも大きいですね。フリーになってから「ビッグモーニング」(TBS、90年~)のアシスタントとして生島ヒロシさんとご縁ができたのですから。

─00年、2度目の結婚を機にアナウンサー業を引退。活動再開まで長い空白期間がありました。

寺田 ずっと専業主婦をしていて、特に12年に夫が亡くなってから1年間はうつ状態。何をやっても面白くない、誰とも会いたくない、外出するのは必要最低限の買い物だけという生活でした。家に引きこもっていたら娘が「ちょっと働いてみたら?」って背中を押してくれたんです。アナウンサーとしての復職は最初から諦めていたので、新聞の求人広告を見て片っ端から応募したものの、すべて不採用。どうにか知り合いのツテでコールセンターに勤めて、ベビーシッターの手配などをしていました。時給制で働くのは初めての経験で、ご迷惑ばかりかけていたと思います。

─どんな経緯でカムバックを?

寺田 アルバイトを始めて半年くらい経った頃、偶然、再会した生島ヒロシさんに「アナウンサーとして復帰したら?」と勧められて‥‥。最初は絶対に無理だと思ったんですけど、「大丈夫だから」と勇気づけられ、生島さんの事務所(生島企画室)に所属させてもらうことになったんです。ラジオのレギュラーが決まると、これまでのマイナス思考から一変。初心に戻って滑舌練習をしたり、スポーツジムで体力作りに励んだり。特に音読の効果はてきめんで、声を出すことで自信を取り戻していったんです。

─音読と朗読は違う?

寺田 読むという行為は同じでも、自分なりに音声で表現するのが朗読。私の教室には90代の方がいらっしゃいますが、人生経験が豊かな方ほど素晴らしい朗読をされる。例えば人が泣くシーン。若い人が「うえ~ん、うえ~ん」と読むところ、お年を召した方は泣きたい時ほど泣けないという状況を知っているから、辛さや苦しみの表現に深みが出る。心の震えを音声で表現する。そこが朗読の難しさでもあり、魅力でしょうか。

─中高年読者にエールをお願いします。

寺田 私はフジテレビの先輩でもある田丸美寿々さんから「還暦を過ぎてからが収穫よ」と言われて、50代のうちに心理学を学んだりして畑を耕してきたんです。50代の努力が60代になって形になった実感があるので、10年後を見据えて何か行動を起こしてほしいですね。

(つづく)

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