安倍晋太郎は、妙にこだわった。
「結婚式は、絶対に長男が先じゃないとまずい」
そこで、兄の寛信と幸子の結婚式は、昭和六十二年五月二十三日、晋三と昭恵は、それから二週間後の六月九日と決まった。
六月九日、安倍晋三と松崎昭恵は結婚した。挙式は、港区赤坂の霊南坂教会で行われた。この教会で挙式することは、昭恵のたっての願いであった。森永製菓創業者の森永太一郎が渡米して菓子の勉強をした修行時代、森永を温かく迎え、支えてくれたのは、現地のクリスチャンたちであった。森永は、教会で洗礼を受けて、自らも信者となった。日本に帰国後、森永の商標をキリスト教にちなんで「エンゼルマーク」とした。昭恵自身はクリスチャンではなかったが、学校がカソリック系であったこと、昭恵の両親も、母方の祖父母も、霊南坂教会で挙式したことから、ウエディングドレスを着てこの教会で式を挙げることは、幼いころからの憧れであった。
折しも、昭恵の親族側は、グリコ・森永事件で揺れている時期であった。ふたりの結婚は、深刻な状況が続く中での光明となった。
披露宴は、東京と、安倍家の実家のある山口県下関市の双方でおこなわれた。
東京では、港区高輪の新高輪プリンスホテル飛天の間で行った。仲人は、安倍晋太郎が会長を務める派閥清和会の前会長である福田赳夫夫妻であった。金丸信前副総理ほか九十五人の国会議員を含め、八百五十人もが出席した。
昭恵は、参席者の多さと、錚々たる顔ぶれに、圧倒された。参席者があまりに多いため、自分の友人たちを披露宴に呼べないほどであった。その代わり、披露宴の後、友人たちを呼んで盛大な二次会を行った。
兄・寛信夫婦と晋三夫婦の両組は、安倍晋太郎の地元・山口県で合同の結婚披露宴を挙げた。しかも、下関市で二カ所。六百人を招いた披露宴は、市の中心部にある結婚式場で行われた。
圧巻だったのは、海辺近くのホテルでの披露宴であった。地元の支持者を招くため、巨大な披露宴会場を設営したところ、約五千人が出席した。
披露宴が済むと、安倍晋太郎の実家のある大津郡油谷町をはじめ、各所をお披露目に回った。その時、沿道では大勢の地元民が手や旗を振って新郎新婦を出迎えた。漁港では、停泊している漁船すべてに大漁旗を高く掲げ、ふたりへの歓迎の意を表した。昭恵は、何とも言えない衝撃に包まれた。
〈安倍のお父様は、こんなにたくさんの方たちに支持されているんだ。主人は、その跡を継いでいく人なんだ〉
各地を巡った時は、安倍晋三夫婦だけでなく、兄夫婦も一緒であった。が、人々は、「安倍晋太郎の跡継ぎは、安倍晋三だ」とすでに理解している。そのため、晋三の妻となった昭恵に、非常に興味を抱いていた。それが、昭恵には痛いほど伝わってくる。
〈わたしは、こういうところにお嫁に来てしまったのね〉
ずっと東京で生まれ育ち、田舎を持たぬ昭恵にとって、地方で暮らす人々の絆の深さ、連帯感は、まったく未知のものであった。それだけに、人々の歓迎が、なおのこと胸に沁みた。
のちに総理大臣に二回も就任するようなドラマや、さらに今回のように夫が凶弾に倒れる運命が待っているとは夢にも思わないメルヘンチックな日々であった‥‥。
作家・大下英治
〈文中敬称略〉
*「週刊アサヒ芸能」8月11日号掲載