安倍総理による天皇制をめぐるバトルの口火は、05年までさかのぼる。当時、秋篠宮さま以降、男性皇族が40年近く誕生していなかったため、小泉政権は女性皇族にも皇位継承資格を広げる検討を開始した。
有識者会議を発足させ、約10カ月後にまとめた報告書では、「皇位の男系継承を維持することは極めて困難」として、女性・女系天皇を容認する流れに傾いていく。そんな中で反対派の急先鋒として立ち上がったのが安倍官房長官(当時)だった。「もっと慎重に議論するべき」と主張し、小泉純一郎氏(77)との間に亀裂が入るほど、両者の関係に禍根を残したのだった。
「06年1月末の夜、有識者会議のメンバーらと会食をした時も、慎重論を唱えたのは安倍官房長官だけで、『改正以外ない』というのが多数の意見でした。それで小泉氏は保守派の反発を無視して、同年の通常国会で皇室典範改正案を提出する方針を固めたのです」(全国紙政治部デスク)
ところがそのやさきの06年2月、秋篠宮妃紀子さま(52)のご懐妊が明らかになると、制度改正の声は小さくなり、小泉氏は改正案提出を見送った。この時の様子を先の「文藝春秋」の寄稿で、安倍総理はこうつづっている。
〈もしご懐妊判明が数カ月後だったら、「女子にも皇位継承権を認め、継承順位は長子優先とする」という有識者会議の報告をもとにした法案が成立していた可能性があるからだ。そうなれば、浩宮さまの次の代の皇位継承第一位は愛子さまとなり、悠仁さまが天皇として即位することは永遠になくなっていたかもしれないのだ。皇室の歴史に取り返しのつかない変化を招いてしまった汚名は、後世けっして消えることはなかっただろう。〉
さらに続けて、紀子さまのご懐妊判明時の記者会見で「皇室典範改正の議論にも変化はあるか」と質問された時も持論を告白している。
〈官僚から差し入れられたメモには、「ご懐妊になられたけれど、有識者会議で出た結論を踏まえた法制化を粛々と進めていきたい」と書いてあったのである。
私はそのメモを脇に押しやり、「当然、今回のご慶事のことを踏まえなければならない」「ご懐妊をふまえ静かな環境が必要、改正論議は凍結する」と自分の判断で答えた。〉
と明かしている。そして06年9月、第1次安倍内閣が発足して権力を手中に収めると、
「最初から議論をやり直したほうがいい」
と言って、あっさり白紙に戻したのだ。この「女性・女系天皇論」反対の総本山こそ、安倍総理その人なのである。