それから二、三週間経ったころ、昭恵は上司の梅原に訊かれた。
「どう、安倍君から連絡はあった?」
昭恵は、首を振った。
「いえ、ありません」
所用で電通に来ていた山口新聞の浜岡も心配して、昭恵に同じことを訊いてきた。
浜岡は、晋三から連絡がないことを知ると言った。
「それは、安倍君に、一回言わなければいけないな」
浜岡は、さっそく、安倍晋三に連絡を入れた。
「昭恵さんを、一回ぐらいデートに誘ったらどうだい」
晋三は、仕事が忙しかった。この三週間の間も、海外を飛び回っていたのである。が、浜岡に言われてすぐ、昭恵に連絡を入れた。
それからは、二週間に一度の割合で、晋三から昭恵のもとに連絡が入るようになり、ふたりで定期的に会うようになった。
晋三は、酒を飲まないが、昭恵はたしなむ。ふたりが食事をする時、晋三はアルコール度数の低い甘いカクテルを、昭恵は水割りを頼む。
ボーイが飲み物を運んでくると、迷うことなくストローや果物などが飾られたカクテルを昭恵の前に、水割りを晋三の前に置いていく。毎度のことで、これにはふたりとも苦笑するしかなかった。
昭恵は、何度か会ううちに、あることに気づいた。
〈この人は、いつ会っても、優しい。しかも、分け隔てなく、だれに対しても、優しい。裏表がなくて、本当に誠実な人なんだわ〉
食事をした時のボーイへの対応ひとつにしても、晋三は、丁寧であった。昭恵は、会うたびに魅かれていった。
ふたりだけでなく、おたがいの友達と一緒にスキーに行ったり、テニスをして遊んだりした。
昭恵の友人たちにも、晋三は非常に評判が良かった。
「安倍さんは、本当にいい人ね。結婚の話は、どこまで進んでいるの?」
初めて会ってから、二年が経った。昭恵の両親は、昭恵には直接言わなかったものの、いろいろと心配しはじめていた。
晋三は、別に昭恵との結婚をためらっていたわけではなかった。昭恵と結婚したいという気持ちは、すでに固まっていた。が、晋三には独身の兄の寛信がいる。まず兄が結婚した後、自分も昭恵と結婚するつもりでいた。
昭恵の両親は、晋三の娘に対する真摯な気持ちを聞いて、うれしく思った。
父親の昭雄は、昭恵に言った。
「自分で選んだ人、自分で選んだ人生なのだから、応援するよ」
一方、昭恵の母親の恵美子は、結婚が決まると、また違う心配が頭をもたげた。
「政治家の妻になったら、この娘は苦労するのではないか」
が、当の昭恵は、晋三への一途な気持ちしか抱いておらず、政治家の妻になる苦労などは、まったく考えていなかった。母校である聖心女学院時代の同級生には、自民党の佐藤信二や松本十郎の娘などがいた。が、政治家の家族の苦労というものを、見たことも、聞いたこともなかった。
晋三も、昭恵に何も言わなかった。「政治家になるけど、構わないか?」といった話も、政治家の妻としてこうでなければならない、という話もなかった。
父親の晋太郎は晋三に言った。
「本人同士が好きあっているのが、いちばんだ」
作家・大下英治
〈文中敬称略/連載(3)に続く〉