小学生の頃から牌を握り、20代から全国を麻雀行脚、プロ雀士として数々のタイトルを獲得したレジェンドが見参。鋭い打ち筋から〝カミソリ灘〟の異名を取った灘麻太郎氏(85)が、有名雀士の素顔を明かした。
「自分で言うのもおこがましいけど、麻雀の世界ではそこそこ名が売れていたから、いろんな芸能人から声がかかるわけですよ。
長門裕之(故人)からは『これから打たないか』って電話がかかってきてね。彼は自宅の地下に麻雀専用ルームがあった。そこには雀卓が2台置かれていてね。長門はサンマ(三人麻雀)を好んで打ったけど、これがなかなか強かった。徹底した攻め麻雀だけど守りも強い。手に溺れることなく、千点、二千点をしっかりと和了(あがり)切るんだ」
24時間飲み放題、食べ放題─。長門邸はさながら有名人御用達の雀荘だったと灘氏は振り返る。そして深夜には「麻雀放浪記」で知られる作家・阿佐田哲也氏(故人)が乱入することもあったという。
「深夜2時頃になると、飲み会帰りの阿佐田哲也がフラッとやってきて卓につくわけ。『強い、強い』って評判だったけど、酒が入ってるせいか、牌を手にしたままコクリコクリと船を漕ぎ始めるの。体を揺すって何度も起こしながら、朝までよく打ったものだよ」
80年代には「日本プロ麻雀連盟」の2代目会長に就任(現在は名誉会長)。業界の発展に尽力するとともに、漫画原作者、歌手としても活躍し、芸能人との交遊を深めていく。
「麻雀好きでよく覚えているのが中村玉緒(83)。舞台公演の時には、空き時間を利用して、衣装もメイクもそのままで近くの雀荘に駆け込んでたっけ。人付き合いがよくて、私が連盟の会長だった時は、恒例の麻雀大会にもよく顔を出してくれてね。彼女は上手な人から和了ることに執念を燃やしていて、『これはないだろう』という単騎待ちを仕掛けてくる。手が読みにくい人だったね。
萩本欽一(81)は浅草で下積み修業に励んでいた頃、少ないギャラを握りしめて雀荘に通っていたそうだ。負ければメシ抜きという状況で打ち続けたせいか、勝負勘はピカイチ。打ち方もトリッキーで、最初から不要牌(一九、字牌)はなかなか切らない。覚えているのは4巡目で必要牌のを切った場面。『さすがにピンズの待ちはないか』と思わせておいてフリテンリーチの待ち。ツモでしか和了れないんだけど、『これは只者じゃない』って思ったよ。
そうそう、フリテンリーチはプロの大会では認められていても、そこらの雀荘では、流れたらチョンボというルールがあった。無類の麻雀好きで知られたジャイアント馬場(故人)は、卓を囲む際、
『灘さん、フリテンリーチはありですか?』
と真っ先に聞いてきたもんだよ。彼の雀風はマジメそのもの。手堅くてしぶとい麻雀を打っていた。でも、あの身長だから普通の雀卓だと長い足が収まらなくて、いつも〝十六文〟のやり場に困っていたよ』
そんな灘氏が「雀豪」と認める相手が、ムツゴロウこと畑正憲氏(87)。幾度となく勝負を繰り広げた。
「集中力とスタミナは別格だよ。88年に私を含めたプロ雀士3人で、北海道のムツゴロウ宅に乗り込んで、100時間ぶっ通しの麻雀大会をやったんだ。ちょっとトイレや食事に立つと、大きな犬が戻ってこれないよう妨害してくるわけ。まさにデスマッチだよ。初日ドン尻だったムツゴロウは2日目から巻き返して最終日に逆転優勝を飾り、この「雀魔王戦」では2年連続トップ。3回目、4回目は私が制したが、あの驚異的なスタミナには他のプロも脱帽していたよ」
最近はコロナで機会が減ったかもしれないけど、また〝仲間たち〟と痺れるような麻雀がしてみたいね。