この試合の3カ月後の6月26日、猪木は大阪府立体育会館でタイガー・ジェット・シンの右腕を折るという凄まじい喧嘩ファイトをやってのける。
前年11月15日、当時の夫人・倍賞美津子との買い物帰りの猪木を新宿伊勢丹前の路上でシンが襲撃するという事件が起こって「やらせか?」と物議を醸したが、そうした「一寸先は偶発事件」の話題作りは力道山イズムだ。その因縁の決着戦の結末が「腕折り事件」に発展してしまった。
鉄柱に右腕を叩きつけ、アームブリーカーで折りにかかり、さらにストンピング! 純粋には名勝負とは言い難いかもしれないが、のちの「キラー猪木」が顔を覗かせた一戦だった。
さらに4カ月後の10月10日、蔵前国技館で大木金太郎との大一番を迎える。新弟子時代、猪木と大木は同部屋で寝起きし、馬場とともに「力道山門下三羽烏」と呼ばれていた。
だが71年12月、猪木がクーデター疑惑で日プロを追われた時、追放の急先鋒となったのが選手会長の大木だった。73年2月、猪木と坂口征二の新日本と日プロの合併計画に反対したのも大木。日プロは同年4月に崩壊し、大木らは馬場の全日本プロレスに吸収されたが、大木は扱いに不満を持って故郷の韓国に帰国。しかしこの74年3月に猪木vsストロング小林が決定するや、馬場と猪木への挑戦を表明した。
その後、大木が馬場への挑戦だけを取り下げたことで「馬場と大木で俺への挑戦者決定戦をやれ」と猪木が激怒。それでも執拗に対戦を迫る大木の挑発を猪木が「これは喧嘩だ!」と受けて立ったことで実現した一戦だけに、試合前から蔵前国技館には殺伐とした空気が充満していた。
果たして猪木は仕掛けた。ボディチェックの際に顔面にパンチをぶち込み、試合が始まってからも頬骨に肘をゴリゴリと押しつけるゴッチ流の裏技で大木の動きを封じた。
だが、ここからが猪木の懐の深さだ。大木の死に物狂いの頭突きを「打つなら打て!」と、真正面から受け止めたのだ。プロレスには「受けの美学」という言葉があるが、それを見せつけたシーンでもあった。
顔面を血に染めた猪木は15発目の頭突きにカウンターのナックル! そして「不滅の鉄人」ルー・テーズの必殺技バックドロップで一気に仕留めた。
試合後には抱き合い、男泣きする猪木と大木。壮絶な喧嘩試合の幕切れは清々しいものだった。
猪木は師匠として力道山、ゴッチ、テーズの3人の名前を挙げていたが、74年の3つの闘いには力道山イズム、ゴッチ仕込みのテクニックと「相手の目玉をくりぬいても勝つ」という非情さ、テーズの強さに裏打ちされたエンターテインメント性が加味された猪木独自のプロレスがあった。それが「燃える闘魂」の原点となった。
(プロレスライター・小佐野景浩)
*週刊アサヒ芸能10月20日号掲載