先日、大学時代の同級生で某県の知事として活躍している友人から照会を受けた。
「これから中国に出張するんだけど、何か留意しておいた方がよいことある?」
そこで私は直ちにこう応じた。
「自分のスマホ、PCは絶対持っていってはダメ。面倒でもレンタルして、出張が終わったら返却するようにした方が良い」
半信半疑だった知事も聞いてくれたようだった。実は、このアドバイスは、アメリカをはじめとするファイブ・アイズ(米英豪加ニュージーランド)の情報関係者、軍事関係者の間では常識である。そう、スマホやPCを中国に持ち込めば、メールや連絡先等の情報を全部吸い取られる、不正な操作をされてマルウェアを埋め込まれることが深刻に警戒されているのだ。
ところが、最近の問題はこれが中国大陸だけに限られなくなったことだ。香港行きに当たっても同様の注意が必要な状況になってきたからだ。
かつては、こんなことはなかった。香港が英国から中国に返還されたのが1997年。その直後、2年間にわたり香港に駐在した。外交・国防については中国が担うものの、社会・経済制度については香港独自のものを維持するという、「一国二制度」が声高に言われていた。香港側及び中国大陸側双方の共通認識でもあった。
中国にあっても、「金の卵を産むガチョウを殺してはいけない」とばかり、国際金融センターとしての香港、外国からの直接投資の受け入れ窓口としての香港を維持することの重要性が認識されていたのだ。
しかし、時代は変わった。急速に経済力をつけ、自信を増した北京は、昔ながらの「広東人は二級市民」と言わんばかりの仕打ちに終始し始めた。香港人活動家の大陸における拘束、香港国家安全法の制定、実施条例の制定による締め付けは、その最たるものだろう。
そんな実態を目にするにつけ、外国からの直接投資を呼びかける中国政府のキャンペーンとは裏腹に、中国のみならず香港からも足が遠のいてしまうのは自然な流れと言えよう。実際、自由で時に混沌の極みにあった香港生活を満喫していた多くの友人が香港の未来に幻滅し、海外に去るか、口をつむぐかしてきた。
インテリジェンス分野で協力してきた米英の友人も、「今の香港には、怖くてとても行けない」と吐露する。私の実感でもある。万が一拘留された場合に、どれだけのサポートが日本政府から得られるかは、中国に拘留されてきた日本人ビジネスマンの処遇を見るにつけ、心もとない限りだからだ。
ビクトリア・ハーバー越しの香港島のきらめく夜景、湾仔(ワンチャイ)の飲茶料理屋の喧騒、レパルス・ベイの静謐は今も変わらないと聞かされた。だが、失われた自由は戻らない。そして、中国共産党がどれだけ現状を糊塗しようとも、香港人の人心掌握に失敗した事実は変わらない。
さらなる問題は、当の中国がこの教訓に学ぶことなく、台湾に対しても同様の対応を繰り返そうとしていることである。
●プロフィール
やまがみ・しんご 前駐オーストラリア特命全権大使。1961年東京都生まれ。東京大学法学部卒業後、84年外務省入省。コロンビア大学大学院留学を経て、00年ジュネーブ国際機関日本政府代表部参事官、07年茨城県警本部警務部長を経て、09年在英国日本国大使館政務担当公使、日本国際問題研究所所長代行、17年国際情報統括官、経済局長などを歴任。20年オーストラリア日本国特命全権大使に就任。23年末に退官。TMI総合法律事務所特別顧問や笹川平和財団上席フェロー、外交評論活動で活躍中。著書に「南半球便り」「中国『戦狼外交』と闘う」「日本外交の劣化:再生への道」(いずれも文藝春秋社)がある。