昭和アイドル生告白(4)新田恵利、母親の介護で知ったワンオペの過酷「周囲に言いふらすことが大事」

「おニャン子クラブ」のメンバーとして、86年に「冬のオペラグラス」でソロデビューも果たした新田恵利(55)。現在はタレント業を続けながら、介護問題に取り組んでいる。

 21年に「悔いなし介護」(主婦の友社)を上梓。母親を92歳で看取るまでの約6年半をつづった一冊だ。

「きっかけは〝待機病院〟へ入院させてしまったことでした。母は骨粗しょう症が原因で、何度も腰椎を圧迫骨折していたのですが、14年のある日、自分から『入院したい』と言い出したんです。そこで車で10分ほどの病院へ入院させたのですが、何日経っても治療計画書が出てこない。その他にも私たち家族に連絡もなく、大部屋から個室に変えてしまうなど、色々なことが重なり、私はその病院に不安や不満を持つようになりました。それで退院させたのですが、驚いたことに入院前よりも病状が悪化し、自分で歩けなくなってしまっていたのです」

〝入院しているのだから安心〟だと思っていただけに、受けたショックは大きかった。後にこれが待機病院だと知る。

「介護関係の仕事が増えて、取材などでこの話をしたら、そう言われました。言い方は悪いですが、生かさず殺さずというか、治療する気がない病院。そんな病院があるなんて信じられませんよね? もちろん、看板にそんなことが書いてあるわけではないし、外からではよくわかりません。本当に病院選びは大事だなと思いました。少しでもおかしいと思ったら、遠慮なく聞いた方がいいです」

 こうして始まった介護生活だったが、始めた頃は何もわからず、手探り状態が続いた。

「何しろオムツひとつ買うのでも、どうしたらいいかわからないんです。ドラッグストアに売ってるだろうとは思うんですが、どれを買えばいいのか? サイズは? 大人のオムツってどう替えるの? 本当にわからないことだらけでした」

 他にも「どこまで延命治療をするか」「銀行の暗証番号」など、確認しておくべきことは多いという。

「とにかく介護は1人ではできません。わからないことも多いし、自分1人で抱え込んでしまうと憂鬱になってしまう。だから私がオススメしているのが〝言いふらし介護〟。家族でも友達でも、そういう人がいなければSNSでも『こんなことがあったの!』と吐き出すんです。そうすれば気が楽になるし、親切な人が情報を教えてくれることもある。いつ終わるのかわからないのが介護ですから、できるだけ気楽に考えることも大事です」

 おニャン子時代は気が短くて「よく大人から呼び出されて怒られた」と笑う。

「扱いづらかったと思います。正義感が強くて、白黒ハッキリさせなきゃ気が済まない性格だから、理不尽なことがあると『何でこうなのよ!』って頭にきちゃう。だから、20歳の頃に運転免許が取りたくて、事務所の社長に『ダメなら辞める』って言ったこともありますし、事務所のスケジュールボードにバーッと線を引いて『休み』って書いたこともあります。結局、消されて仕事を入れられちゃいましたけど(笑)」

 6年半の介護で気は長くなっただろうか。

「介護って気が長くないとできないイメージですけど、そんなことはなくて。私はよく母とケンカしてましたね。といっても本人に向かって怒るのはよくないので、そんな時はその場から離れるのがいい。喫茶店でも公園でも、海でも山でも、1時間でもいいんです。そうすれば冷静になれますから」

新田恵利(にった・えり)68年、埼玉県生まれ。85年、おニャン子クラブのメンバーとして「夕やけニャンニャン」(フジテレビ系)に出演。ソロデビュー曲「冬のオペラグラス」は30万枚以上の売り上げを記録した。現在は介護関連の取材、講演も多い。23年、淑徳大学総合福祉学部の客員教授に就任。「加藤裕介の横浜ポップJ」(ラジオ日本/毎週火曜日)にレギュラー出演中。

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