アントニオ猪木は37年半の格闘技人生の中で幾多の名勝負を戦ってきた。
映像が残っておらず、伝説の一戦として語り継がれている66年10月12日、23歳にして社長兼エースとして旗揚げした東京プロレスの蔵前国技館でのジョニー・バレンタイン戦。ジャイアント馬場としのぎを削った日本プロレスでは、NWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニアとの2度にわたる60分時間切れの死闘がベストバウトだろう。
新日本プロレスを旗揚げしてからは「無冠の帝王」「プロレスの神様」と呼ばれた師匠カール・ゴッチとの実力世界一決定戦、ストロング小林や大木金太郎との実力日本一路線、ルー・テーズ、ビル・ロビンソンとのプロレス・ルネッサンス、タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガンらとの激闘、ウイリエム・ルスカやモハメド・アリとの異種格闘技戦‥‥猪木はプロレスラーとして格闘家として様々な顔を見せてきた。
振り返ると若き日の猪木は、ゴッチから学んだジャーマン・スープレックス・ホールドや卍固めなどのテクニック、スピード感溢れるフレッシュなファイトぶりで「若獅子」と呼ばれていた。「闘魂」の2文字を背負うようになったのは、72年3月6日の大田区体育館における新日本旗揚げ戦からだ。新調された猪木の白いガウンに「闘魂」の2文字が鮮やかに刻まれたのである。
だが、猪木が真の意味で「若獅子」から、現在のキャッチフレーズである「燃える闘魂」に変貌したのは新日本旗揚げ3年目の1974年。この年の3つの大勝負が転機になった。
まず1つ目は同年3月19日、蔵前国技館で実現したストロング小林戦。国際プロレスのエースだった小林が2月にフリー宣言して馬場と猪木に挑戦を表明。猪木が受けて立ったこの試合は、54年12月12日に行われた力道山と木村政彦の日本選手権以来、20年ぶりの超大物日本人対決だった。
力道山vs木村は、力道山が木村の顔面に張り手をかまし、蹴りまくってのドクターストップ勝ちという後味の悪い試合になってプロレス人気が下落。そのために以後はエース級の日本人対決はタブーとされていただけに、この猪木vs小林戦は大きな話題を呼んだ。
「力道山vs木村の二の舞になるか!?」という危惧がある中で、それまでテクニシャンのイメージが強かった猪木が最初に仕掛けた。調印式で小林の頬を張って決闘ムードを煽り、試合本番でも正攻法の小林に対して痛烈な右エルボーでダウンを奪う喧嘩ファイト。判官びいきもあるだろうが、声援は小林に傾いた。そうした空気作りも猪木のプロデュースだったのかもしれない。
エキサイトした小林の鉄柱攻撃で額を割られて追い込まれた猪木だったが、バックドロップから、ゴッチ直伝のジャーマン・スープレックスで見事な逆転勝ち。喧嘩腰のピリピリした闘いを「プロレスを芸術の域まで高めた」と言われる高度な大技で終わらせたところが猪木の凄さだ。最後、ブリッジした猪木の両足が宙に浮いたことも、技の衝撃を物語っていた。
(プロレスライター・小佐野景浩)
*週刊アサヒ芸能10月20日号掲載