「もっとはじっこ歩きなさいよ!」
私のこの決め台詞を、懐かしく感じる皆様もいらっしゃるんじゃないかしら。1990年に放送された、金鳥「タンスにゴン」のCM中の一言よ。後輩のちあきなおみが商店街を歩いている時に、自転車で横を通りがかった私が言い放ったの。
当時は、芸能人生の再起を図っていた真っ最中。ここで爪痕を残せなければ次はないという、戦う気持ちで現場に向かいました。だから、本番前の化粧室でも彼女に宣言したわ。
「ねえ、ちあき。今日はあんたを〝食い〟に来たからよろしくね。覚悟してちょうだい」と。あの頃は私より人気があったから、挑戦状を突きつけるつもりで。彼女は「そんな怖いこと言わないでください」と、かなりビビっていたみたい。
意気込みは誰にも負けなかったものの、本番前の打ち合わせ中に最大のピンチが訪れました。CMプロデューサーの故・市川準さんに質問されたの。「美川さん、自転車には乗れますよね?」と。「あら、自転車に乗ったことなんてありません。どうしましょう」なんて、口が裂けても言えない。「はい、乗れます!」と自信満々に答えました。「お食事をして、少し休憩をしてから本番に臨みましょう」という一言を添えて。
休憩に入ってすぐ、大慌てでちあきに伝えたわ。
「実は私、自転車に乗れないのよ。そんな理由で降板させられて他の人に変わられちゃうと、困るのよ。今日はあんたと戦いに来たのに。だから監督には絶対、秘密にしておいてちょうだい! 私、人がいない路地裏で練習してくるから」
そして、お食事と休憩時間をパスして2時間、猛練習。なかなか上達しない自分に怒りを覚えたわ。「元々ダンサーをしていたし、わりと勘はいいはずなのに、なぜ乗りこなせないの!?」って。
結局、本番でもヨロヨロと倒れそうになりながらしか漕ぐことができなくて。しかも自転車の運転に気を取られて、「もっとはじっこ歩きなさいよ!」っていうセリフが出てこないまま、ちあきの横を通り過ぎちゃうの(笑)。監督から何度、「セリフを言ってください」とダメ出しされたことか。
覚えていないほどNGを出したけれど、もちろん最後はOKをいただいて。ちあきと「やったー!!」と、ハイタッチして喜んだわ。
その上、監督に手放しで褒められたのよ。「さすが大映ニューフェイスだけあって、演技がお上手ですね。ヨタヨタしながら自転車を漕いでほしかったんです。僕の理想通りでした!」って。「災い転じて福となす」というところかしら。
CMのオファーをいただくことができたのは、「オールスター爆笑ものまね紅白歌合戦!!」(1989年、フジテレビ系)の出演依頼をお断りしなかったから。
出演するかお断りするかすごく迷ったのよ。当時はモノマネ芸人が歌っている最中に、本人がサプライズ登場するなんてありえなかった。つまり、私が第1号。
出演は、直感で決めたわ。一発目だからインパクトが強いだろうし、元旦の番組に出演させていただくのは久しぶり。「ひょっとしたら(自分を取り巻く)世界が変わるかもしれない」と思って。審査員を務めていて、かわいがっていただいた故・淡谷のり子さんにも知らせず、驚かせるのも面白いなと思って。
コロッケが歌っている時に私が登場する以外の決まり事はなし。司会者とはフリートークよ。事前に、媚びは売らずに毒を吐いてやろうとだけ決めて挑んだの。
だから、「モノマネされた感想は?」と聞かれた時も「いい迷惑よ」と答えて(笑)。
「コロッケさんの衣装はいかがですか?」と質問されたら、「こんな安物は着ないわよ、私は」って、言ってやったの。憎まれ口をあえて叩いたのが、バカ受けして、芸能人生が激変したのよ。あの答えは、瞬時にひらめいた直感。私、勘が強いのよ。番組を観ていたプロデューサーから金鳥のCMのオファーをいただいた時は「来たのね! ついに来たわ! やってやるわよ!」と思ったもの。
美川憲一(みかわ・けんいち)歌手。1946年5月15日生まれ、長野県出身。1965年、「だけどだけどだけど」で歌手デビュー。10月1日・2日、よみうり大手町ホールにて「美川憲一ドラマチックシャンソン」を開催。