【大型連載】安倍晋三「悲劇の銃弾」の真相〈第3回〉(1)「晋三はいい嫁をもろうた」

 亡き父の遺志を継ぎ、安倍晋三が国会議員に初当選したのは29年前のことだ。以降の長い間、2度の総理大臣就任を果たす一方で、病との戦いにも晒された。それでも自由奔放と言われた妻が元総理を支え、元総理もまた自由奔放な妻を守り抜いたのである。〈作家・大下英治〉

 安倍晋三は、平成三年六月二十九日、増上寺で総理を目指しながら果たせなかった亡父・晋太郎の七十七日法要を済ませた。それから九日後の七月八日、山口県萩市で、正式に次期総選挙に山口一区から立候補することを表明した。

「父の夢を追い求め、受け継いでいきたい」

 亡き父親の弔い合戦とはいえ、決して楽な戦いではなかった。

 安倍昭恵も応援に入った。

 まだ二十代の昭恵がミニスカートを履いて来ると、「スカートは、もう少し長いもののほうがいいんじゃないかしら」と注意を受けた。

 晋三も、当初は、国会議員の妻として本当に大丈夫だろうかと心配していたが、すぐに打ち解け、後援会の人たちに可愛がってもらった。

 晋三は思った。

〈東京生まれの東京育ちなので、かえってわたしの地元でのコミュニティーが、新鮮に感じられ、かつ感動しているのではないか〉

 昭恵は、晋三が国会議員を目指していることを承知で妻となった。安倍晋太郎の秘書であった奥田斉が見るところ、昭恵は、とにかく仕事好きだ。おもしろがってやっている。ざっくばらんな性格で、話していても肩が凝らない。どのようなところに行っても、まったく気取らない。決して威張ることもない。みんなの輪の中にスッと入っては、一緒に騒いでいる。地元では、人気が高い。

 安倍晋太郎は、生前、奥田に昭恵のことを褒めていた。

「晋三は、いい嫁をもろうたよ。こういう嫁は、なかなかもらえん」

 奥田も、昭恵に言った。

「あんたは、政治家の嫁さんに本当に似合っているねえ。こういう仕事、あんた自身が好きなんだ」

 昭恵は、屈託のない顔で笑った。

「そうですかねえ」

 晋三は、平成五年七月十八日投票の衆院選で、九万七千六百四十七票を獲得し、山口一区から出馬した八人のうちトップ当選を飾った。

晋三は、母親と妻が支えるダルマの残された片方の目に黒々と墨を入れた。

 昭恵の充実感は、達成感になった。このように満たされた思いは、昭恵の人生の中で、初めてのことであった。

 昭恵は、平成十年の春、夫の後援者である青年部の冨永と飲みながら話をしていた。冨永は、下関にコミュニティーFM局「COMEON!FM」を立ち上げるという。

 昭恵が、冗談混じりに言った。

「わたしも、番組をやりたいわ」

 冨永は、即座にうなずいた。

「いいですよ、やってくださいよ」

 話はとんとん拍子に進み、週に一度、三十分番組を担当することになった。「アッキー・洋介のTOKYOラウンジ」という番組で、安倍晋三夫人であることは伏せ、アッキーという名前を使うことにした。洋介という青年を相棒に、毎回、昭恵が好きなゲストを呼び、お酒を飲みながらおしゃべりするという内容だった。自分の身分を忘れ、選挙とも関係がなく、まったくの趣味のこの仕事は、昭恵にはただ楽しかった。

 二年ほど続けた頃、内閣官房副長官に就任していた晋三がつい、番記者に昭恵が地元でDJをしていることを話してしまった。すぐに夕刊紙に記事が載り、雑誌やテレビのワイドショーでも取りあげられるようになってしまった。

 昭恵は思った。

〈今までは好き勝手におしゃべりしていたけど、安倍晋三の奥さんだと思って聴かれるとなると、やっぱりしゃべりづらいな〉

 昭恵は、自分が批判される分には構わなかった。が、たとえ楽しんでくれるリスナーがいたとしても、自分が批判されることによって夫にマイナスとなるのだったら、やらないほうがいい。

 昭恵は、DJの仕事は辞めてしまった。

 昭恵がまたDJをやるのは、平成十六年の春になってからである。

〈文中敬称略/連載(2)に続く〉

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