内田氏にとって忘れられない選手の一人が、クセ者で鳴らした元広島の正田耕三(59)だった。社会人野球からドラフト2位で入団しながらレギュラーの壁を破れず、守備要員に甘んじていたが、87年にレギュラーに定着し、首位打者を獲得。スイッチヒッターとしては初の快挙となり、指導者の成功体験として刻まれた。
「当時は木下富雄(69)がセカンドのレギュラーで、正田はプロとしてのパワー不足を痛感して悩んでいて、相談を受けていました。ちょうど高橋慶彦(64)と山崎隆造(62)の1・2番コンビがスイッチヒッターで成功していたので、右打ちの正田もトライすることに。毎朝9時から、マウンドから打席の半分の距離に立たせて、打撃マシンの『超高速』を左で打たせました。朝の室内練習場で600~800球を1シーズン毎日こなすことで、最初こそかすりもしなかったボールが徐々に前に飛ぶようになりました。実はこの時点では、他のチーム関係者には隠していた秘め事だった(笑)」
監督としてチームを3年連続Vに導いた緒方孝市(52)もマンツーマン指導で、95年から3年連続盗塁王に輝いている。
「90年頃に球団から、秋季キャンプ後の12月~翌1月までの練習場として自宅に環境を整えられないか打診がありました。当時新築したばかりだったので、最初は反対しましたが、折れない球団が30万円で2階まで届く折り畳み式のネットを購入してしまい、承諾するしかなくなりました(笑)。スピードが売りの選手でしたが、1軍と2軍を行ったり来たり。朝の9時から昼までティー打撃をして、我が家で焼き飯やカレーを食べる。午後から広島市内のジム「アスリート」に通って筋力トレーニングをするのが日課でした。朝からボールを打つ音が近所にカンカン響くから、妻が菓子箱持参で一軒ごとに頭を下げて回りました」
大卒ドラフト6位ながら一流選手の証である2000安打を達成して名球会入りを果たした新井貴浩(44)には、絶賛を惜しまない。
「最初は名前の通り、打撃も守備も粗かった(笑)。広島出身で体が大きいぐらいしか取り柄がなかったから、大学の先輩でもある当時のヘッドコーチだった大下剛史さん(76)に徹底的にしごかれました。あと、なんでもかんでもはできない不器用さも幸いしたと思います。
器用な選手はすぐに覚える反面、すぐに体が忘れてしまいますが、愚直に反復練習を繰り返して、体に良いクセを染み込ませることができた。大卒の野手でここまで成長した選手は、後にも先にも出てこないかもしれません。新井の存在は、指導者や努力する若手の道しるべになり、後のカープ大躍進につながっています」
内田氏は19年オフに巨人を退団。20年からJR東日本の外部コーチに就任して、21年4月からアドバイザーを務める。
「社会人野球の二大大会である「日本選手権」と「都市対抗野球」に向けて、週に3~4日は泊まり込みで指導しています。社会人野球界でも余韻の残るコーチを目指して精進しようと思います」
*「週刊アサヒ芸能」4月15日号より