あの大統領とも会談、「渋沢栄一検定」でビジネス観を学ぶメリットとは?

 NHK大河ドラマ「青天を衝け」がいよいよスタートしました。主人公である渋沢栄一(1840年〜1931年)は、徳川将軍家に仕えた幕臣、大蔵官僚、実業家など様々な顔を持つ人物。その生涯でおよそ500の会社の設立や経営に関わり、「日本資本主義の父」と称されています。

 2024年には新一万円札の顔になることもあり、今後はさらに注目度が高まるのは必至。今回、ご紹介する「渋沢栄一検定」で、その人物像や功績を学んでみてはいかがでしょうか。

 それでは例題を見てみましょう。

〈問1〉1867年、渋沢栄一は誰の随行員としてパリ万博に参加した? 【1】徳川慶喜、【2】徳川斉昭、【3】徳川慶篤、【4】徳川昭武

〈問2〉1902年、渋沢栄一が民間外交の一環として会談を行った当時のアメリカ大統領は、【1】ハーバート・フーヴァー、【2】セオドア・ルーズベルト、【3】ハリー・トルーマン、【4】ドワイト・アイゼンハワーのうち誰?

 実際の試験でも四者択一方式で出題されます。試験区分は初級と中級の2つ。自宅でパソコンやスマホなどで手軽に受験できるオンライン試験となっています。例題の答えは〈問1〉が【4】、〈問2〉が【2】です。

 渋沢栄一の経歴を少し紹介すると、仕えていた徳川慶喜からの信頼も厚く、大政奉還後は大隈重信からスカウトされて明治新政府に出仕し、大蔵官僚として活躍。退官後は実業家へと転身し、現在の東京証券取引所、みずほ銀行、りそな銀行、東京ガス、東京電力、日本郵船、帝国ホテル、清水建設、王子製紙など名だたる企業・団体の設立や経営に関わりました。

 その後は教育、福祉、医療、国際交流など社会奉仕活動に取り組み、晩年の1926年と1927年にはノーベル平和賞候補にも選ばれています。生前から人間性も大きく評価されていたのでしょう。

 実業家として名を馳せても、彼はけっして驕ることなく、面会を求める人に門前払いをするようなことは滅多になかったそうです。時間が許す限り、多くの人々の話に耳を傾けていたというエピソードは、現代のビジネスマンも見習うべきかもしれませんね。

 その活動の根底には、日本経済の発展のために尽くしたいという大義があったのでしょう。その証拠に、戦後にGHQが財閥解体を行った際、渋沢家はほとんど株式を持っておらず、財閥と呼べるほど一族で財産を独占していたわけではないことが判明しました。なお、前述した有名企業にしても、軌道に乗ったところで株式を手放し、新たな企業設立の原資にすることで、日本の経済発展に尽くしたのです。

 1890年に行われた第1回衆議院議員選挙で、立候補していなかったにもかかわらず、次点となる有効票を獲得したのは有名な話ですが、それほど国民人気も高かったのでしょう。

 私心を排して人心を掌握した渋沢栄一のビジネス観は、起業する上で大きな武器になるはずです。

儲かる指数:72

鈴木秀明(すずきひであき)/81年生まれ。東京大学理学部、東京大学公共政策大学院を経て資格アドバイザーに。取得資格数は約700。

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