令和3年の正月三が日明け早々、「朝日新聞」朝刊(1月4日付)に「光秀 本能寺に行かなかった?」の見出しが躍った。記事によれば、光秀は本能寺(京都市中京区)の現場には行かず、本能寺から8キロ南、洛外の鳥羽(京都市南区・伏見区)に控えていた。実際に本能寺を急襲したのは家臣の斎藤利三(としみつ)、明智秀満(ひでみつ)らが率いた先遣隊2000の軍勢だった、というものだ。
「えーっ、『敵は本能寺にあり』と叫んで、信長と対峙したんじゃなかったの?」と、衝撃を受けた歴史ファンも多かったに違いない。
比較的信憑性の高い史料として知られる「信長公記(しんちょうこうき)」では、光秀に襲われた信長は殿中奥に入り「是非もなし(仕方がない)」と言って自刃したことになっている。今回発見された古文書には、信長が弓や槍をとって戦う様子や、本能寺から逃げ延びた女房から聞き取った話として、信長が畳を上げて四方に立て、4、5人の侍女に「いずれも出よ、出よ」と言って逃がしたことなども描かれているという。
これらは、加賀藩の兵学者・関屋政春が書いた「乙夜之書物(いつやのかきもの)」(金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵)の三巻本の上巻に記載されたもので、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員が詳しく読み解き、新発見したものである。
「本能寺の変」の記述は、明智軍の重臣・斎藤利三の当時数え16歳であった三男の利宗(としむね)が、甥の加賀藩士・井上清左衛門に語ったという内容を関屋が書き留めたもので、事件から87年後の1669年に成立した書物。
歴史家の河合敦氏は、「光秀が最前線にいる必要もないので、ありうる話。実際に本能寺の変に参加した人物の証言という意味では、今後検証に値する史料」だとする。
今回、「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」などの記述を発見した萩原氏は、「週刊アサヒ芸能」の取材に、他にもいくつかの新たな発見があったと語ってくれた。
〇斎藤利三が事件前日の6月1日昼に亀山城内の数寄屋で、本能寺を討つことを知らされていた。
〇通説では、西国と京都の分岐点になる老(おい)ノ坂あたりで光秀が「敵は本能寺にあり」と全軍に謀叛の意思を伝えたことになっている。ところが、告げたのは光秀ではなく、もっと下っ端で中間管理職である部隊長の家臣であり、真夜中(2日早朝)に休憩した桂川の河原で「これから本能寺を攻めるぞ!」と言った。
〇これまで出陣の時間に関しては、「川角太閤記(かわすみたいこうき)」では、酉の刻(午後5時〜7時)、また「惟任退治記(これとうたいじき)」では、子の刻(午後11時〜午前1時)に亀山城を出発したとされるなど諸説あるが、今回の文書には「日暮れ前に出発した」とあり、実際に事件にかかわった人物の実感として、従来語られてきた夜ではなく、まだ明るいうちに出陣したことなどがわかる。具体的な時刻がないことで、むしろ信憑性がある新たな発見だという。萩原氏によれば、
「これまで通説を形作ってきたのは、信長や秀吉側など光秀の敵側からの史料。今回の文書は、本能寺の変に参加した人物の証言で、敗者である光秀側の史料が見つかったことになる。事件から87年後の記述で、超1級史料とまでは言えないが、他の史料と合わせて見ると、本能寺の変の真実が見えてくるのではないか」
果たして大河ドラマではどう描かれるのか。
萩原大輔(はぎわら・だいすけ)82年、滋賀県生まれ。富山市郷土博物館主査学芸員。京都大学博士(文学)。専門は日本中世史。加賀藩関係史料の調査中、今回の記述の発見に至った。著書に「謙信襲来」(能登印刷出版部)、「武者の覚え 戦国越中の覇者・佐々成政」(北日本新聞社)など。
河合敦(かわい・あつし)65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。早稲田大学非常勤講師。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。主な著書:「早わかり日本史」(日本実業出版社)、「大久保利通」(小社)、「繰り返す日本史二千年を貫く五つの法則」(青春新書)など。
※「週刊アサヒ芸能」2月11日号より