今では「NHK紅白歌合戦」や「ダウンタウンの笑ってはいけない〜」と並ぶ大晦日の風物詩である格闘技イベント。かつて「INOKI BOM-BA-YE」という興行を主催していたアントニオ猪木も年末の顔だったひとりだ。
だが、彼はプロレスラーとしてだけでなく元国会議員の顔を持つ。途中で落選によるブランクがあるものの、参議院議員を2期12年務めた。19年7月の参院選には出馬せず、政界から引退したが「その外交手腕は永田町関係者からも高く評価されていた」とは大手紙の政治記者。
1990年の湾岸戦争でイラクがクウェートに侵攻した際、駐在員やその家族など41家族46人の日本人が人質となったが、彼らのために尽力した人物こそが当時新人議員の猪木だった。
「このとき日本政府はイラクを非難するだけで交渉は難航していました。そんな中、単身バグダッドに乗り込んだ猪木はフセイン首相(当時)の長男ウダイと会談。モハメド・アリと戦ったり、パキスタン遠征で地元の英雄アクラム・ペールワンを破った一戦などアラブ世界での絶大な知名度を生かし、『平和の祭典』というイベントの開催を条件に人質を解放させたんです」(前出・政治記者)
通常、外交は友好国、敵対国に関係なく外務官僚など政府高官による下交渉を事前に行うのがほとんど。しかし、猪木は外務省に頼ることなくひとりでやってしまった。
これについて外務省の中堅職員は、「首相や外務大臣ですら大半は我々がお膳立てしないと何もできないのに、初当選の翌年に野党議員がやってのけるなんて考えられないこと。外交のセンスや能力はここ数十年の歴代外相よりも高い」と、その手腕と「猪木外交」の功績を高く評価。
実際、元外務官僚で作家の佐藤優氏もモスクワ日本大使館勤務時、猪木がロシアに持つパイプのおかげでクレムリンに自由に出入りできるようになったと後に明かしている。
「プロレスラーとしての性分なのかスタンドプレーが過ぎるのが難点ですけど(笑)。仮に与党の議員だったとしてもしがらみの多い大臣は無理だったと思いますが、北朝鮮の拉致問題を含め、もっと活躍の場を与えてもよかったかもしれませんね。菅政権になって、改めてその外交力が惜しまれます」(前出・外務省職員)
GoToキャンペーンやコロナ対策で後手後手に回って批判を浴びている菅内閣は、猪木の決断の早さや行動力を見習ったほうがいいのかもしれない。