名だたる戦国武将のもとには、美食家のイメージがつきまとう。全国各地から、さぞや豪華な献上品が届けられたことだろう。歴史家の河合敦氏、戦国芸人・桐畑トール氏とともに戦国時代の食にまつわるエピソードを紹介しよう。
石田三成で有名な食のエピソードといえば、三成が関ケ原の戦いに敗れ、京都鴨川の河原の処刑場に運ばれる時のこと。喉が渇いたので白湯を所望するものの、警護の武士に、水はないからこれでガマンせよと干し柿を出されると、死を目前にしているにもかかわらず「柿は痰の毒(喉に悪い)なので食べたくない」と言ったとか。秀吉の晩年に毛利元就から冬の桃が献上された時に、旬のものでない桃を食べて太閤殿下が腹をこわしてはいけないからと、桃を突き返したという「食えない」話も今に残る。
秀吉には、各大名からさまざまな地方の名産品が献上されていた。
「その中でもすごいのが、四国の長宗我部元親が巨大な鯨をまるまる一頭献上した逸話。これは三成も断ってないようですよ」
と同郷の桐畑氏は三成を弁護する。
鮒(ふな)ずしは、中国から伝わった鮨の原型ともいわれる熟なれずしで、鮒を塩漬けにしたのち、樽の中に炊いた米を重ねて漬け、自然発酵させた滋賀・琵琶湖地方に古くから伝わる郷土料理だ。独特の強烈な香りが苦手な人も少なくなく、信長もその1人だったと河合氏は言う。
「明智光秀は、武田氏を滅ぼしたあと、信長に命じられて安土城を訪れた徳川家康の接待のメニューを作りますが、その時信長に『腐った魚を出しやがって』と叱責され、殴打されたというしくじり事件があります。腐った魚というのは鮒ずしだったと思われます。実際に殴打されたかどうかはわかりませんが、このあと光秀は接待係をやめさせられて、中国攻めをやっていた秀吉の応援を命じられ、本能寺の変の謀反の動機となったという説もある事件でした」
桐畑氏が言う。
「光秀は浪人時代に福井とかいろんな地域を回っていて、若狭湾で捕って京都に運んだ塩漬けの魚になじんでいたと思うので、鮒ずしに対する抵抗はなかった。信長は尾張で新鮮な魚を食べていたので、鮒ずしは腐った魚にしか見えなかったんでしょうね(笑)。僕も滋賀に帰ったら、近所のおじさんが漬けた鮒ずしを土産にしています。酒好きな人は初めてでも、うまいじゃんって喜んでくれるんですが、酒を飲まない人は信長と同じで、抵抗があるみたいです」
信長が鮒ずしを気に入らなかったのも、下戸説の証拠になる話である。
健康オタクだったといわれ、当時の武将としては75歳と長寿だった徳川家康は、鯛の天ぷらが好きだったと伝わる。たびたび食べては食あたりを起こしているにもかかわらず、最期も鯛の天ぷらを食べて体調を崩して亡くなっている。
「家康は質素・倹約がモットーのいわゆるけちんぼでしたから、晩年になって急に食べつけないうまいものを食べたのがいけなかったんでしょうね。天ぷらといっても、今みたいに衣をいっぱいつけたのじゃなくて、素揚げに近いものだったみたいですね」(桐畑氏)
一方の河合氏は、
「直接の体調不良の原因は鯛の天ぷらだったとしても、その後も数カ月間回復せず、結局没しています。その症状からいって胃ガンだったのではないかと思われます。晩年にこうした油っこいものが好きになって、グルメになっていたのかもしれません。その一例として、蝦夷の松前藩には、オットセイを注文して献上させたりしています」
オットセイの“生殖部位”などは精力剤として珍重されたが、家康は晩年になって10代の若い側室を次々に迎えていたから、夜の生活のための精力剤が必要だったのだろう。
のちに、二桁の側室に50人以上の子供を産ませた徳川11代将軍・家斉なども、オットセイの“男性シンボル”を精力剤として愛用、「オットセイ将軍」と呼ばれたが、そのルーツは家康だったのだ。
河合敦(かわい・あつし)1965年、東京都生まれ。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。多摩大学客員教授。早稲田大学非常勤講師。歴史作家・歴史研究家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。主な著書:『早わかり日本史』(日本実業出版社)、『大久保利通』(小社)、『繰り返す日本史 二千年を貫く五つの法則』(青春新書)など。
桐畑トール(きりはた・とーる)1972年、滋賀県生まれ。滋賀県立伊香高校卒業後、上京しお笑い芸人に。2005年、オフィス北野に移籍し、相方の無法松とお笑いコンビ「ほたるゲンジ」を結成。戦国マニアの芸人による戦国ライブなどを行う。「伊集院光とらじおと」(TBSラジオ)のリポーターとしてレギュラー出演中。現在、TAP(元オフィス北野)を退社しフリー。