世界の福本豊〈プロ野球“足攻爆談”〉「高3球児たちに『最後の試合』を!」

 盗塁王13回、シーズン歴代最多となる106盗塁、通算盗塁数1065と輝かしい記録で「世界の福本」と呼ばれた球界のレジェンド・福本豊が日本球界にズバッと物申す!

 夏の甲子園大会の中止はほんまに心が痛いニュースやな。どのスポーツもそうやけど、今まで何のために部活を頑張ってきたのか、となる。春の大会が中止の時は周りも「まだ夏があるから」と慰めていたけど、今回はかける言葉もない。入学から球拾いばかりさせられて、3年になってやっとレギュラーになった子も多いはず。どんな形でもいいから、せめて背番号入りのユニホームで試合をさせてあげたい。

 もしも自分らの世代で「中止」と考えたら、どれほどのショックか想像すらできない。1965年やから今から55年前のこと。大鉄(現・阪南大高)で甲子園初出場を果たした。1年生の時に就任したOBの網監督が「3年生になったら甲子園に行かしたる」と熱心に指導してくれて、その言葉を信じて、ひたすらついていった。先輩の理不尽な「しごき」に耐えたのも、甲子園という目標があったから。最後の夏はあれよあれよと大阪大会を勝ち抜くことができた。

 準決勝で格上のPL学園に勝った時は、ほんまにうれしかった。当時のPLはその名をとどろかせ始めた頃で、ユニホームを見るだけで圧倒されたもんや。先輩も2年連続で負けていた。1年生の時は、のちに阪急入りした戸田善紀さんに完封負け。僕も三振した。センバツで21奪三振の記録を作っただけあって、それまで見たこともない速い球やったな。次の年も負けて、3年生になってついに先輩の敵をとった。

 決勝の相手の興国は、大鉄とよく似た機動力が得意なチーム。実は準決勝で大阪学院を負かしてくれて、みんな胸をなで下ろしていた。大阪学院の2年生投手は球がめちゃくちゃ速く、バッティングもよかった。「あれと対戦したらやばいで」と正直ビビッていた。それが、あの江夏豊。決勝で当たっていたら、ひねられていたと思う。

 僕の父親もラーメン店そっちのけで、球場に応援に来ていたし、甲子園出場で近所でもちょっとしたヒーローになった。今思えば、甲子園の土ぐらい持って帰ればよかったかな。でも、あの時は土を持って帰る気にもならんかった。

 甲子園の1回戦の秋田戦は、延長13回に自分の前にポテンヒットが落ちてサヨナラ負け。二塁手とお見合いする悔いの残るプレーやった。チーム全体に油断があったのかもしれん。初回は僕が四球で出塁して、盗塁が成功。2番打者の送りバントが失策を誘って、ヒットなしで1点を取った。2回にも2点を追加し「楽勝やな」というムードに。ところが、2番手投手をまったく打てなかった。僕も盗塁でアウトになったし、3回からは無得点。9回に追いつかれ、悪夢のような幕切れやった。でも、あのポテンヒットがあったから、守備への意識は高まったし、その後の糧となった。甲子園は僕にとっても人生を変える舞台やった。

 それに、甲子園に出られなかったとしても「高校最後の試合」は人生の宝物になる。先輩たちもいまだに顔を合わせれば「あの時、お前がスクイズを決めていたら」など、思い出話に花を咲かせている。今年の3年生にもそういう節目となる試合だけはさせてあげたい。地方大会だけは開催して、優勝チームを何年か後に甲子園に集めるはどうやろ。たとえ何十年たったあとでも、仲間と一緒に甲子園でプレーできたら最高の宝物になると思うんやけど。

福本豊(ふくもと・ゆたか):1968年に阪急に入団し、通算2543安打、1065盗塁。引退後はオリックスと阪神で打撃コーチ、2軍監督などを歴任。2002年、野球殿堂入り。現在はサンテレビ、ABCラジオ、スポーツ報知で解説。

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