世界の福本<プロ野球“足攻爆談!”>「梨田とじっちゃんと僕の野球人生」

 盗塁王13回、シーズン歴代最多となる106盗塁、通算盗塁数1065と輝かしい記録で「世界の福本」と呼ばれた球界のレジェンド・福本豊が日本球界にズバッと物申す!

 晴天のゴールデンウイークも「辛抱」の毎日でした。今も家の中でテレビを見て過ごすしかない日々。ほんまに野球が見られないのは寂しいな。あらためて、僕は野球が好きなんだなと思いました。台湾、韓国は一足早くプロ野球が開幕したし、日本でも1日も早く野球が見られる日が来ることを祈るばかりです。

 そんな中、ホッと胸をなで下ろしたのが、新型コロナウイルスに感染して、集中治療室に入っていた梨田が回復したこと。一時は人工呼吸器をつけて深刻な状態と伝え聞いていたから、ほんまに心配していた。自分で食事ができるようになり、歩行訓練ができるまで回復したというから、一安心。同じくコロナで入院していた片岡もアビガンを飲んで症状がよくなったらしいけど、梨田もそうなんかな。僕より6歳も若いし、まだまだ元気でいてもらわないと困る。

 僕もいろんなキャッチャーと対戦してきたけど、梨田はNo.1の強肩捕手やった。ホップするような送球はコントロールも抜群。捕ってから投げるまでがなにしろ素早かった。「フクさんのおかげで余計な練習をたくさんさせられましたよ」と引退後に聞かされた。夜になるとガラスを鏡代わりにして、素早く投げるフォームを繰り返し、体に覚えさせたという。腰を浮かせて少し半身の形となり、ミットでボールを握らずにパンとはじく感じでボールをつかんでの送球。普通のスタートやったら間違いなくアウトになる速さや。

 僕の盗塁を刺すのに執念を燃やしていたから、よく1打席目に対決を申し込んできた。「フクさん、塁出たら1球目から勝負しましょうよ」と。「お前、1球目にウエストするつもりやろ。だから嫌や。でも勝負するけどな」と、こんなやり取りをしていた。梨田には悪いけど、いくら送球の技術を磨いても、殺されない自信があった。なにしろ当時のほとんどの近鉄の投手の牽制の癖を見抜いていたから。ノムさんにも言ったことやけど、いくら捕手が頑張っても、投手がモーションを盗まれたら、アウトにはならない。

 僕に走られまくるから、敵将の近鉄で監督になった西本のじっちゃんもカリカリしていた。ベンチからは「当て~っ」の声も聞こえてきた。当時のパ・リーグの野球といえば、体を目がけてくるような、えげつない投球が普通にあった。でも、梨田はそういう攻めはしてこなかった。キャッチャーにしては珍しく素直で優しい性格をしていた。

 僕は阪急、梨田は近鉄で西本幸雄監督に鍛えてもらったから、弟弟子のような関係と言える。西本監督が阪急の監督を辞めて、翌年の1974年から近鉄の監督になった時には驚いた。最初は弱かったけど、梨田らが育って強いチームになった。じっちゃんは人を見る目があって、育てるのがうまかった。3球団で8度のリーグ優勝を飾りながら日本一にはなれなかったけど、ほんまの名将やった。

 予定どおり開幕していれば、4月25日のオリックスのホームゲームは、じっちゃんの生誕100年を祝うイベントが行われたはずや。阪急を球団初のリーグ優勝に導いた時の背番号50を選手全員がつけて試合することになっていた。僕が今でも野球の傍らで仕事ができているのは、西本監督のおかげ。メモリアルデーは球場でファンと一緒にお祝いしたかったな。

福本豊(ふくもと・ゆたか):1968年に阪急に入団し、通算2543安打、1065盗塁。引退後はオリックスと阪神で打撃コチ、2軍監督などを歴任。2002年、野球殿堂入り。現在はサンテレビ、ABCラジオ、スポーツ報知で解説。

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