リーゼント刑事が「犯罪捜査の裏側」を語り尽くした【2】職務質問でカチ割る

 凶悪犯罪の犯人を逮捕することが平和につながる。そう信じる秋山氏は休日返上で捜査に没頭した。その一方で、トレードマークのリーゼントでたびたび非難を浴びることも。

「中学の頃から矢沢永吉さんの大ファンで『2番はダメ。1番にならなきゃ』っていう言葉が大好きなんです。高校に入ってからはずっとリーゼントで、生徒会長も務めました。もともと刑事になりたい夢があったので、ロックスターの矢沢さんと日本一の刑事になった自分のイメージを重ね合わせていたんです」

 高校卒業後、念願だった警察官の道を歩み始める。

「交番勤務からリーゼントでした。そりゃあ、周囲からは陰口を叩かれ、先輩からも『髪切れ』と何度も言われました。それでも日本一を目指す上で、この髪型は譲れない。そのためにも人の10倍働いて結果を出す必要があった。自転車の窃盗が相次いだ時は、非番でも駐輪場に張り込んでは自転車ドロを捕まえたりね。そのうちヘアスタイルのこともとやかく言われなくなったんです」

 交番勤務と機動隊勤務を経て、84年4月に徳島県警鳴門署の刑事になった。

「刑事としての初仕事は水死体の引き揚げで、ふとした弾みで腐敗汁を全身に浴びたのは忘れられません」

 すべては事件の被害者のために─。朝から晩まで駆けずり回り、エース刑事に。階級も巡査部長から警部補、警部へと昇進していく中で、2度の「日本一」を手に入れる。

「02年は捜査一課の係長として、そして09年は捜査を指揮する警部として、凶悪犯罪の検挙率で徳島県警がトップになったんです。もちろんワシ一人の力ではありません。みんなで掴んだ日本一。裏を返せばこの2年は、徳島県が全国で最も平和だったということ。でも女房には迷惑をかけっぱなしで、心の中では『すまんな』と繰り返していました」

 2度目の日本一を達成した09年、秋山氏にとって忘れられない事件が起きる。5月11日、鳴門市の砂浜に両手足のない遺体が打ち上げられたのだ。

「バラバラ死体、それも発見されたのは胴体だけ。殺害現場も身元も見当がつかない。漁師さんに海流を聞いて、遺体遺棄現場の目星をつけるところから捜査を始めました」

 迷宮入りも危惧されたが、事件は思わぬ展開を見せ、

「どうやら被害者は大阪の八尾市に住むAさんではないか、そして彼が同居する父親に暴力を振るっていたこともわかった。内偵捜査を進めるうち、父親が犯人だと確信したんです」

 逮捕状を請求できるほどの証拠はない。態勢を立て直すため、大阪から徳島の捜査本部へと戻る途中、秋山氏は胸騒ぎを覚えた。

「ふいに小池俊一に逃げられた時のことを思い出したんです。あの時はブンヤが家の前で写真を撮り始めたことで勘づかれてしまった。気になって新聞を買ったら、案の定、鳴門市で発見された胴体の身元が書かれていた。父親がこの記事を見たら、小池事件の二の舞になる。Uターンして父親の家へと向かいました」

 長距離トラックの運転手をしていた父親は、新聞報道に気づくことなく、翌朝に帰宅した。だが、証拠も令状もない。そこで一世一代の大博打を打つ。

「職務質問でカチ割るしかないと思って待機していたら、車から降りた父親が立ち小便したんです。これ幸いとばかりに、ツカツカと歩み寄って警察手帳を突きつけて『〇〇だな』とフルネームで呼んだらガクガクと震え出したので、これはイケると思いました」

 そこで、秋山氏は被害者の名前を口にして、

「首と両手両足を一日でも早く見つけて成仏させたれ。どこから捨てたんや!」

 こう畳みかけると、父親は観念したように「鳴門大橋です」と明かした。

 職務質問でバラバラ殺人を自供させたのは、前代未聞の逮捕劇だという。

*「週刊アサヒ芸能」4月14日号より。【3】につづく

ライフ