「元気ですかー! 元気があれば何でもできる」─リング内外で波瀾万丈に、誰にも真似のできない人生を駆け抜けた稀代のレスラーに思いを馳せよう。時は76年6月26日、アントニオ猪木とモハメド・アリの「格闘技世界一決定戦」が実現。大舞台の裏側には、女優の元夫人との知られざる二人三脚秘話があった。
日本プロレスを追放されたアントニオ猪木(享年79)は72年3月6日、東京・大田区体育館で新日本プロレスを旗揚げする。しかし、「苦難の連続だった」と振り返るのは、〝過激な仕掛人〟として数々のビッグマッチを手掛けた、元新日本プロレス専務取締役の新間寿氏(87)だ。
「72年10月にジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げした時は、日本テレビが中継し、優秀な営業マンもいて、いわば豪華客船のようなもの。一方、新日本は選手集めも難航し、無人島でいかだを作るところから始めなければならなかったんです」(以下同)
新日本を旗揚げする前年11月には、倍賞美津子(75)と「1億円挙式」を挙げていた。費用は日プロが支払う約束だったが、追放されたことで猪木の借金になり、常に財政は火の車。そんな非常事態を前に、人気女優だった倍賞も協力を惜しまなかった。
「マイクを使って宣伝文を吹き込んだり、スポンサーの社長が倍賞さんを連れてきたらお金を貸してくれると言えば『行ってあげるよ』と二つ返事で、写真やサインにも応じてくれました。テレビ局の関係者にも猪木さんをプッシュして、いろいろな番組に出演させてくれました。映画『ターザンの猛襲』の吹き替えを猪木さんが務めたこともあった」
その後、数々の名勝負を繰り広げ(次章参照)、トップスターになった猪木に76年、さらなるチャンスが到来する。
アリが日本レスリング協会の八田一朗氏に、「誰か東洋人で俺に挑戦する奴はいないか」と、持ちかけたのだ。
「馬場は富士山のような存在で、猪木さんがエベレストになるためには、なんとしてでもアリ戦を実現する必要があった」
ファイトマネーはアリが600万ドル(約18億円)、猪木が6億円とケタ外れ。試合当日まで、一波乱も二波乱も巻き起こった。
「3月にニューヨークで行われた契約調印式でアリは、『お前のアゴはペリカンに似ている。このペリカン野郎!』と挑発すると、猪木さんは『なんと言おうと私は柳に風だ。竹は風で折れない』と、通訳を介して不動心をアピール。アリがヒートアップして罵詈雑言を並べたら『いい加減にしなさい!』と、怒ったのは倍賞さんだった。驚いたアリに通訳が、猪木さんの奥さんで日本の映画スターだと説明すると、態度がガラリと変わって、『すごい美人の奥さんだな』とべた褒めし、その場が和んだんです」
百戦錬磨の王者でも、勝ち気な美人妻にはタジタジだった‥‥。
*週刊アサヒ芸能10月20日号掲載