阪神タイガースで1985年に「全員一丸野球」をスローガンに球団史上初の日本一を達成した指揮官・吉田義男氏が2月3日、脳梗塞で亡くなった。91歳だった。
現役時代は華麗なフィールディングで「今牛若丸」と呼ばれファンに愛され、引退後は阪神の監督を3度務めた。2度目の87年は最下位に終わり、球団に「辞任ではなく解任してください」と啖呵を切るなど熱い性格で、「阪神は強くなければあきまへん」という言葉は口癖だった。
97年、3度目の監督就任の際は、清原和博氏(当時西武)のFA獲得に動き、「阪神のユニホームの縦縞を横縞に変える気持ちがある」の口説き文句でオファー。
「清原氏は当時を振り返り、今だから言える話として阪神の提示が総額36億円の10年契約だったことを明かています。それどころか、監督だけではなく球団社長のポストも約束していたという。それでも巨人に行ったのは、母親による『夢は巨人で4番になることじゃなかったんか』『あんた阪神行って、ジャイアンツ優勝してまた泣くんか』との説得からでした」(スポーツ紙記者)
巨人入団を決めた後、読売新聞の故・渡辺恒雄主筆に挨拶に行った際は「清原くん、きみは本当にいいお母様を持たれた」と大いに喜んでいたそうだが、反対に吉田氏は「巨人の赤絨毯よりも虎を変える茨の道を選んでくれると思った」と大いに悔やんでいたという。あの時、吉田氏の誘いに乗っていたら、清原氏の野球人生は大きく変わっていただろう。
(小田龍司)