本書の前置きにあたる部分で告白しているように、著者自身もリュックを背負っていて「バッグが当たっているんだよ!」と怒声を浴びたことがあるらしい。
しかし、公共交通など現代都市のインフラについて社会学的に研究しているという人だけに、そこから鉄道マナーの歴史に入っていくあたり、さすがは学者である。
まず、鉄道は「社会の縮図」であると定義づける。
例えば、騒がずに静寂を保つ基本マナーは、同時に、相手に対して無関心で無視するのではなく、むしろ認知した上で適切な距離をとり、過度に踏み込まない配慮であるという。これを社会学では「儀礼的無関心」というのだそうだ。
それを前提に、まずは「昔に比べてマナーが劣化した」という嘆きが真実かどうかを検証する。スリなどの犯罪をはじめ、鉄道営業法などの法律に違反する行為の推移を見ると、決して「昔はよかった」ばかりではないことがわかる。その思い込みの排除を前提に、全国主要都市に路面電車が普及した20世紀初頭以来の歴史が明かされていく。
停留所以外での飛び乗りや飛び降り、車内の床はゴミだらけ、裸足や下着姿もアリ‥‥これが明治末期の状況だった。昭和に入る頃には、降車優先や整列乗車が強く求められたものの、それは正反対の実態が横行していたことを物語る。戦時中こそ、国家統制で守らせたにしても、戦後は元の木阿弥、やっと1960年代になって基本的な秩序が確立したという。
ちょうど今年は「昭和100年」。マナー不在の混乱状態だった戦前から、厳しく規制されて行儀良くせざるを得なかった戦中、車両不足で大混雑の終戦直後を経て、世の中が落ち着くと「エチケット」が流行語になるなど、乗客自身が意識を高めるようになる。
そこへ「通勤地獄」と呼ばれる東京の殺人ラッシュアワーが出現し、それどころではなくなってしまう。国鉄民営化でJRが誕生した昭和末期になって、やっと社会全体がマナー重視になってくる。まさに、急速な近代化から戦争の時代、戦後混乱期、経済成長期、バブルという昭和史と重ね合わされ、昭和のオジサンには懐かしい限りだ。
もちろん、平成、令和の新時代マナーについても考察がなされ、車内喫煙全面禁止、シルバーシートの使い方等々、新しい問題が分析されている。折しも、昨年末に発表された日本民営鉄道協会による「駅と電車内の迷惑行為ランキング」では「周囲に配慮しない咳やクシャミ」が初めて第1位となった。コロナ禍あっての結果だろう。
車内マナーの在り方についていろいろと考えさせてくれると共に、この問題を通して昭和、平成、令和の3代100年の我々の生活史を描く1冊にもなっている。
《「電車で怒られた!『社会の縮図』としての鉄道マナー史」田中大介・著/1100円(光文社新書)》
寺脇研(てらわき・けん)52年福岡県生まれ。映画評論家、京都芸術大学客員教授。東大法学部卒。75年文部省入省。職業教育課長、広島県教育長、大臣官房審議官などを経て06年退官。「ロマンポルノの時代」「昭和アイドル映画の時代」、共著で「これからの日本、これからの教育」「この国の『公共』はどこへゆく」「教育鼎談 子どもたちの未来のために」など著書多数。