「落語の人」つまり落語家、春風亭一之輔に惚れ込んだ著者によるこのノンフィクションは、異色の導入部から始まる。「はじめに ~長い言い訳~」と題した本題に入る前の文章が、なんと30ページにも及ぶのである。だが、これがまず面白い。
新卒入社わずか7カ月で会社を辞め、フリーライターの道を選んだ著者が、ふと入った寄席で落語と出会い、その世界に引き込まれていく過程、そして出会った一之輔の高座に惹かれた理由が、心弾む筆致で披露される。同じく、熱烈な一之輔ファンになった編集者と本書を企画し、首を縦に振らない本人にアプローチし続けること3年余り。やっと承諾を得て20時間に及ぶインタビュー取材をしたにもかかわらず、原稿に着手するまで約2年‥‥。
そう、著者自身も登場人物の1人となった同時進行ドキュメントを読むかのように、われわれ読者も一之輔の人間像に近づいていくのだ。このプロセスがあるから、聞き取った当人のナマの発言を丁寧に読み解いていく本文が、すんなりと腑に落ちる。
この落語家を大勢の人が知っているのは、昨年2月からメンバーに加わった人気TV番組「笑点」(日本テレビ系)における姿が圧倒的だからだろう。だが著者は「『笑点』の一之輔は本当の一之輔ではない」と断言する。ここで描かれるのは、あくまで「落語の人」としての姿であり、人柄と噺、両方の魅力を、実にいきいきと伝えてくれる。
各章のタイトルも言い得て妙だ。「ふてぶてしい人」とは、我が道を行くために安易な妥協を許さない生き方を、「泣かせない人」とは、涙を誘う人情噺よりも客を笑わせる滑稽噺を追究していく方向性を示している。「寄席の人」とは、落語家のホームグラウンドである寄席に出演することを、何より重視する姿勢を指す。売れっ子になるにつれ、他の大きな仕事が多くなる中、多忙なスケジュールを縫って頻繁に顔を見せる。寄席の出演料など多寡の知れている額だし観客数も限られているが、テレビ出演よりもこちらを優先しているという。「落語の人」の面目躍如ではないか。
しかも寄席は、年末の何日間かを除き、毎日昼夜開催だ。上野、浅草、新宿、池袋の盛り場にあって、いつでもフラリと入れる。本書は、同時に寄席の楽しみ方を教えてくれもするのだ。また、一之輔の周囲にいる他の落語家たちも、多数紹介されるので、彼らに対する興味だってわいてくるに違いない。
45年にわたり、落語を聴き続けてきたわたしにとっても、寄席はかけがえのない場所である。一之輔の、落語の、寄席の素晴らしさを活写した本書を契機に、寄席へ足を運んでくださる方が増えるとすれば、とてもうれしい。
《「落語の人、春風亭一之輔」中村計・著/1100円(集英社新書)》
寺脇研(てらわき・けん)52年福岡県生まれ。映画評論家、京都芸術大学客員教授。東大法学部卒。75年文部省入省。職業教育課長、広島県教育長、大臣官房審議官などを経て06年退官。「ロマンポルノの時代」「昭和アイドル映画の時代」、共著で「これからの日本、これからの教育」「この国の『公共』はどこへゆく」「教育鼎談 子どもたちの未来のために」など著書多数。