前駐豪大使・山上信吾が日本外交の舞台裏を抉る!~歴史認識問題を乗り越える戦後80周年に~

 心配な年始を迎えた。

 岩屋毅外務大臣の安直で見識に欠ける発言が、またぞろ歴史認識問題を生き返らせてしまったからだ。本人いわく、昨年12月25日に北京に赴いて行った王毅中国外相との会談で、「歴史認識に議論が及んだ際に、石破茂内閣は1995年の村山談話、2015年の安倍晋三首相談話を含むこれまでの首相談話を引き継いでいると説明した」由。

 これを捉えた中国側は、「岩屋外相が『村山談話の明確な立場を引き続き堅持し、深い反省と心からの謝罪を表明する』と述べた」旨対外発表した。いつもながらの自分に都合の良いところを拡大・強調する中国の脚色豊かな説明ぶりだ。しかしながら、もはや歴史的使命を終えた村山談話に岩屋外相が言及したこと自体、日中双方の説明に食い違いはない。

 そんな必要があったのか?言うまでもなく、中国の外交上の企図は、歴史認識問題で日本を守勢に立たせ、自らは道徳的高みに立つことにある。謝罪を続けさせ、補償などの譲歩を絞り取るのだ。そんなからくりを理解していれば、歴史認識問題を持ち出されたところで、「戦後処理の問題は、両国の関係者の努力により遥か昔にけりがついた」「今や日中関係は全く新たな局面にある」「南シナ海の軍事化、尖閣諸島近海や台湾海峡での絶え間ない威圧など、中国の『軍国主義』こそが問われるべき時代」などと、何故反論しなかったのか?

 媚中派で知られる政治家に自ら「歴史戦・外交戦を戦え」とは、土台無理な注文かもしれない。であれば、外務官僚はどういう振り付けをしているのかが問われるべきだ。

 実は、それこそが問題かもしれない。

 1993年の慰安婦問題についての河野談話、95年の村山談話の背景にチャイナスクールの謝罪主義者がいたことは周知の事実だ。伝統的に外務省内にあっては、中国や韓国担当の部局が謝罪や補償という相手国の要求に柔弱に対応しがちな一方、戦後処理を担ってきた国際法局(旧条約局)は法的に筋を通し、安易な妥協を排する役目を果たしてきた。

 だが、そんな条約局の中枢にあった条約課でさえ、誠に次元の低い議論をしていた記憶がある。1990年代前半、私が条約課担当官をしていた頃だった。昼休みには故小松一郎条約課長(後のフランス大使、内閣法制局長官)を囲んで昼食に出向くのが習慣だった。そんなある日、阿川弘之の帝国海軍賛美本に触発されたのか、一期上の担当官が「ヨネウチは…」と得々と語りだした。「君、それはヨナイだよ」と諭した小松課長の苦笑を今もよく覚えている。山本五十六は「ゴジュウロク」だったのかもしれない(笑)。だが、この担当官は後に次官にまで昇進し、旭日旗の広報を止めた(拙著「中国『戦狼外交』と闘う」(文春新書))。

 また、12月8日はジョン・レノンが殺された日だとのみ記憶し、真珠湾攻撃の日だと知らなかった課員もいた。

 こんな外務省員の惨状があるからこそ、憂国の思いを込めて、山岡鉄秀氏と「歴史戦と外交戦」(ワニブックス)を世に問うた次第だ。

 大東亜戦争敗戦後80年の今年、余計な談話を出す必要など一切ない。出せば出すほど、歴史認識問題はエンドレスになるからだ。必要なのは歴史戦を乗り越えていく胆力。これに尽きる。

●プロフィール
やまがみ・しんご 前駐オーストラリア特命全権大使。1961年東京都生まれ。東京大学法学部卒業後、84年外務省入省。コロンビア大学大学院留学を経て、00年ジュネーブ国際機関日本政府代表部参事官、07年茨城県警本部警務部長を経て、09年在英国日本国大使館政務担当公使、日本国際問題研究所所長代行、17年国際情報統括官、経済局長などを歴任。20年オーストラリア日本国特命全権大使に就任。23年末に退官。TMI総合法律事務所特別顧問や笹川平和財団上席フェロー、外交評論活動で活躍中。著書に「南半球便り」「中国『戦狼外交』と闘う」「日本外交の劣化:再生への道」(いずれも文藝春秋社)、「歴史戦と外交戦」(ワニブックス)、「超辛口!『日中外交』」(Hanada新書)がある。

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